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【大久保忠佐】
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家康の江戸入りに伴い上総茂原などで5000石
天正十八年(1590年)の小田原征伐を経て北条が滅亡。
秀吉の差配により関東に移された徳川家康は、大久保忠佐に上総茂原などの5000石を任せます。
忠佐は、このエリアで組市を設置したこともありました。
組市というのは常設の市場のことです。
忠佐は関ヶ原の戦い翌年、慶長六年(1601年)に駿河三枚橋城主となっているため、上総を長く統治したわけではありません。
しかし、彼の設置した組市が発展の一歩となったことは間違いないでしょう。
彼の時代の三枚橋城付近では大きなトラブルもなく、無事に城主を勤め上げると、慶長十八年(1613年)9月27日に生涯を終えます。
享年77。
大坂の陣の前年であり、猛将にしては静かな晩年でした……と言いたいところですが、実はその前に一悶着ありました。
弟の大久保忠教に継がせようとしたが
大久保忠佐には息子がいませんでした。
そのため然るべき筋から養子を迎えて跡を継がせなければならず、弟の大久保忠教(ただたか)を養子にして跡を継がせようとします。
しかし、です。
他ならぬ忠教自身が「私には勲功と呼べるほどのものがないのに、兄の跡を継ぐわけにはいきません」と固辞。
これにより、忠佐の系統は断絶・改易となってしまったのです。
我々からすると「えぇ……?」と困惑せざるをえません。
一体何があったのか?
なんとか好意的に解釈してみましょう。
江戸幕府ができてしばらくたった後、徳川秀忠や徳川家光の時代は統制が重んじられた時期でした。
たとえ徳川家の血を引く者であっても、何か問題が起きれば容赦なく処罰されています。
大久保家の場合、既に長兄・大久保忠世の嫡子である大久保忠隣(ただちか)が家を継いでおり、それでいて次男以下の系統まであまりに強固であると、何かにつけてあらぬ疑いをかけられるおそれがありました。
また、領地や財産の配分、あるいは家督継承などによって、お家騒動が起きることも考えられます。
忠教はそういったことを懸念して、忠佐の後を継がなかったのかもしれません。
……ちょっと無理がありますかね?
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本人名大辞典
藤井讓治『徳川家康 (人物叢書 新装版)』(→amazon)
菊地浩之『徳川家康家臣団の辞典』(→amazon)