1613年11月9日(慶長18年9月27日)は大久保忠佐(ただすけ)の命日です。
大河ドラマ『どうする家康』で小手慎也さんが演じてた人だよね……というのは惜しい!
それは大久保忠世(ただよ)であり、忠佐はその弟となります。
実はこの大久保忠佐も、徳川十六神将の一人に数えられる功臣。
以下のように有名どころがズラリと並ぶのですから、
◆徳川十六神将
酒井忠次
本多忠勝
榊原康政
井伊直政
米津常春
高木清秀
内藤正成
大久保忠世
大久保忠佐
蜂屋貞次または植村家存(家政)
鳥居元忠
鳥居忠広
渡辺守綱
平岩親吉
服部正成
松平康忠または松平家忠
忠佐もまた徳川家康を天下人に押し上げた一人と言えるでしょう。
では当人には一体どんな活躍があったのか?

大久保忠佐/wikipediaより引用
大久保忠佐の生涯を振り返ってみたいと思います。
兄と共に徳川数々の戦場へ
前述の通り大久保忠佐は、大久保忠世の弟です。
武家で”兄弟”というとイヤな展開を予感しますが、大久保兄弟については問題がない……と言いますか、むしろ兄も弟も立派すぎるぐらい。

大久保忠世/wikipediaより引用
生まれは天文六年(1537年)で、家康より5歳年上でした。
あまり関連性はないですが足利義昭と同い年です。一説には、豊臣秀吉もこの年の生まれだとか。
忠佐は次男という立場もあってか、忠世と行動を共にすることが多く、以下のように家康の主な合戦に参列しておりました。
永禄六年(1563年)三河一向一揆
元亀元年(1570年)姉川の戦い
元亀三年(1572年)一言坂の戦い、三方ヶ原の戦い
天正三年(1575年)長篠の戦い
天正十年(582年)本能寺の変
天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦い
天正十八年(1590年)小田原征伐
慶長五年(1600年)信州上田合戦
このうち【一言坂の戦い】に面白い話が残されています。
一言坂の戦い
一言坂の戦いとは、徳川軍vs武田軍の合戦のひとつで、三方ヶ原の戦いの前哨戦にあたります。
西上する武田軍に対し、天竜川の渡河を防ぐため家康も自ら出陣。
徳川軍は、武田軍の半分前後の兵力しかありません。
そこで戦闘が始まってしばらくすると、家康は撤退を決断し、大久保忠佐が本多忠勝と共に殿(しんがり)を務めるのです。

本多忠勝/wikipediaより引用
敵軍を背後で引き受けなければならない殿は、死と隣り合わせの非常に危険な役割。
しかし忠勝だけでなく、実は忠佐も「生涯の合戦で一度も傷を負わなかった」という共通点がある猛将とされます。
結果、二人は無事にその務めを果たします。
一言坂の戦いでは忠勝に著名なエピソードがあり、どうしても関心を奪われてしまうため、忠佐の印象は控えめになってしまうのでしょう。
大久保忠佐が通常のメジャーリーガーだとしたら、本多忠勝は大谷翔平選手みたいなものでしょうか。もしも同じチームにそんな人物がいたら、どうしたって影に隠れてしまいますわな。
また【長篠の戦い】でも、こんな逸話が残されています。

長篠合戦図屏風/wikipediaより引用
この戦いでは兄の大久保忠世と共に戦っていたところ、主君の同盟者である織田信長の目に留まり、わざわざ家康に「あの二人の武士は誰だ?」と尋ねたというのです。
「大久保家の兄弟で、金の蝶の旗は兄の忠世、浅黄の黒餅は弟の忠佐です」
家康がそう答えると、信長はこう褒めたとか。
「膏薬のように敵に張り付いているな。見事な戦いぶりをする奴らよ!」
そして信長は『士を育てることにおいて、俺は家康に及ばない』と感じたとか。
確かに、信長は才能の芽を育て上げるよりも、既に花開きつつある人物を身分問わず抜擢することのほうが得意なように思えますね。
忠佐は日頃の言動や人柄に関することがあまり伝わっていないようですので、謹厳実直な人物だったと思われます。
家康の江戸入りに伴い上総茂原などで5000石
天正十八年(1590年)の小田原征伐を経て北条が滅亡。
秀吉の差配により関東に移された徳川家康は、大久保忠佐に上総茂原などの5000石を任せます。

徳川家康/wikipediaより引用
忠佐は、このエリアで組市を設置したこともありました。
組市というのは常設の市場のことです。
忠佐は関ヶ原の戦い翌年、慶長六年(1601年)に駿河三枚橋城主となっているため、上総を長く統治したわけではありません。
しかし、彼の設置した組市が発展の一歩となったことは間違いないでしょう。
彼の時代の三枚橋城付近では大きなトラブルもなく、無事に城主を勤め上げると、慶長十八年(1613年)9月27日に生涯を終えます。
享年77。
大坂の陣の前年であり、猛将にしては静かな晩年でした……と言いたいところですが、実はその前に一悶着ありました。
弟の大久保忠教に継がせようとしたが
大久保忠佐には息子がいませんでした。
そのため然るべき筋から養子を迎えて跡を継がせなければならず、弟の大久保忠教(ただたか)を養子にして跡を継がせようとします。

大久保忠教/wikipediaより引用
しかし、です。
他ならぬ忠教自身が「私には勲功と呼べるほどのものがないのに、兄の跡を継ぐわけにはいきません」と固辞。
これにより、忠佐の系統は断絶・改易となってしまったのです。
我々からすると「えぇ……?」と困惑せざるをえません。
一体何があったのか?
なんとか好意的に解釈してみましょう。
江戸幕府ができてしばらくたった後、徳川秀忠や徳川家光の時代は統制が重んじられた時期でした。
たとえ徳川家の血を引く者であっても、何か問題が起きれば容赦なく処罰されています。
大久保家の場合、既に長兄・大久保忠世の嫡子である大久保忠隣(ただちか)が家を継いでおり、それでいて次男以下の系統まであまりに強固であると、何かにつけてあらぬ疑いをかけられるおそれがありました。
また、領地や財産の配分、あるいは家督継承などによって、お家騒動が起きることも考えられます。
忠教はそういったことを懸念して、忠佐の後を継がなかったのかもしれません。
……ちょっと無理がありますかね?
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【参考】
国史大辞典
日本人名大辞典
藤井讓治『徳川家康 (人物叢書 新装版)』(→amazon)
菊地浩之『徳川家康家臣団の辞典』(→amazon)






