伊奈忠次

伊奈忠次像(茨城県水戸市の備前堀道明橋上)/wikipediaより引用

徳川家

家康に“江戸”を託された伊奈忠次~街づくりの基本は大規模な治水事業にあった

忠勝のように最強と畏怖されるでもなく。

政信のように知略を称えられるわけでもない。

されど徳川家康が江戸で武家政権を運営してゆくにあたり、絶対に欠かせなかった人物がいます。

伊奈忠次です。

この忠次、実に二度も徳川家から離れておきながら、三度目の正直で才能を開花させ、家康の政権運営を支えたとも言える重要な人物。

だからこそ大河ドラマ『どうする家康』にも登場した……かと思ったら一瞬で終わってしまい、『どんな実績があるのか?』と気になった方もいらっしゃるでしょう。

1610年8月1日(慶長15年6月13日)はその命日。

いったい伊奈忠次とは何者なのか、振り返ってみましょう。

 

三河に生まれて出奔

伊奈忠次は天文19年(1550年)、三河国幡豆郡小島城主・伊奈忠家の嫡男として生まれました。

家康が天文11年(1543年)生まれですので、年代的にはほぼ一回り下。

しかし永禄6年(1563年)の三河一向一揆で父が反家康派に加わっていたこともあり、徳川家を出奔してしまいます。

つまり生まれてからずっと家康に従っていたわけではないんですね。

父と共に徳川へ帰参したのは天正3年(1575年)。

武田軍と死闘を繰り広げた【長篠の戦い】に参戦すると、その功から徳川への帰参を許され、家康嫡男の松平信康に付けられました。

※以下は松平信康の関連記事となります

松平信康
家康の長男・松平信康はなぜ自害へ追い込まれた?謎多き諸説を考察

続きを見る

しかし、戻ったのも束の間、天正7年(1579年)に信康が自刃に追い込まれて、またしても忠次は居場所を失い、家康のもとを離れます。

身の落ち着き先となったのが和泉国・堺でした。

 

神君伊賀越えで再び徳川へ

天正10年(1582年)6月、織田信長と共に武田家を滅ぼした徳川家康主従は、堺見物を楽しんでいました。

そこへ驚愕の知らせが届きます。

本能寺の変】により、織田信長が明智光秀に討たれたというのです。

このとき堺にいた伊奈忠次も家康一行に加わり、主従ともども決死の【伊賀越え】を乗り越えます。

神君伊賀越え
神君伊賀越え・家康の逃亡ルートはどこだ?本能寺の変後に堺から三河へ命がけの脱出

続きを見る

九死に一生を得た家康により、忠次は再び帰参を許され、父祖の旧領も取り戻しました。

忠次にとっては絶好のタイミングだったのかもしれません。

このころ合戦だけではなく、将来的な治世も見据えた家康にその才を見込まれた忠次は代官衆筆頭に任命されたのです。

こうした事業に向いていたのでしょう。

駿河、遠江、三河の奉行となった忠次は、徳川軍の小荷駄や兵糧の管理、輸送路の整備といった事業を一手に請け負うようになりました。

 

江戸の整備を行う

織田家内での権力争いを勝ち抜き、徳川家康も従属させ、北条氏も滅ぼした豊臣秀吉

天下人となった秀吉の意向により、家康は北条氏に代わり、関東の広大なエリアを新たな所領とされます。

吾妻鏡』を愛読し、後に東国政権を築く家康ですが、当初から関東で徳川政権を築こうと考えていたとは思えません。

源頼朝が本拠地とした鎌倉は、父祖のゆかりがありました。

家康の場合、江戸に移封を決めたのは、あくまで秀吉の都合です。

最初から「江戸を日本一の都市にしよう!」なんて考えたとは思えませんし、そもそも家康時代の江戸はあくまで基礎ができた程度。

その後、何代もかけて世界有数の都市へと変貌してゆくのです。

歌川広重『東海道五十三次』「日本橋」/wikipediaより引用

伊奈忠次もそうです。

子の伊奈忠治と共に関東の整備に尽力しますが、忠次が主に手掛けたのは江戸城建設といった街や住居の整備ではなく“水”。

江戸周辺天領(幕府直轄地)の代官として、治水事業を手掛けました。

具体的な取組を見てみましょう。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-徳川家

×