伊奈忠次

伊奈忠次像(茨城県水戸市の備前堀道明橋上)/wikipediaより引用

徳川家

家康に“江戸”を託された伊奈忠次~街づくりの基本は大規模な治水事業にあった

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伊奈忠次
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忠次の事業

伊奈忠次が取り組んだ主な事業は以下の通りです。

◆利根川東遷事業

→利根川の流れを合流させて東へ移し、銚子へと導く

川俣締切阯の石碑/wikipediaより引用

◆六堰

→埼玉県深谷市にある六堰のうち五堰を整備。水田地帯を開発する

六堰頭首工

六堰頭首工/wikipediaより引用

水は、言わずもがな、都市にとって最も重要なインフラの一つ。

他にどんな好条件が整っていようとも、水がなければ人は生きていけません。

その点、忠次の治水事業が適切だったからこそ、江戸も世界有数の都市となることができたと言える。

そして慶長15年(1610年)、享年61で忠次は没します。

遺領と代官職は、忠次の嫡男・伊奈忠政が継ぎました。

父が残した事業は次男の伊奈忠治が引き継ぎ、さらに河川の開削に励みました。

清廉潔白な代官として、伊奈家は治水を手がけ、製塩や桑、麻、楮の栽培なども伝えます。

民の暮らしを豊かにした伊奈一族は、感謝と共にその名を残したのでした。

 


代官といえばなぜ「悪代官」なのか

伊奈忠次と忠政の父子は、良い代官だったと伝わります。

しかし現代人にとって「代官」といえば「悪代官」というイメージが強くはありませんか?

時代劇における悪役の定番で、百姓を虐げ、賄賂をたかる。パチンコのネタにもされてしまう。そんな悪どいイメージが根強く保たれています。

これはなぜ?

というと幕末以降のイメージがあるのかもしれません。

江戸時代も、時代がくだるにつれ、政治的な限界が訪れると、民衆の不安は増大し、その矛先は代官へ向けられます。

大河ドラマ『青天を衝け』では、代官の理不尽に怒る主人公・渋沢栄一の姿が描かれました。

政治経済は危機を迎えていた幕末。それが目の前で悪代官という形となって主人公の前に出現したのでしょう。

現実には、渋沢栄一の仲間であった天狗党の方が、はるかに厳しく民衆を痛めつけています。

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また、明治以降の政治批判の文脈も考えておきたいものです。

日本では悪辣政治家をストレートに批判することがなかなかできず、江戸時代の政治家に託して批判することも往々にしてありました。

つまり、明治時代の政治家の悪さを江戸時代の代官に負わせたのです。

実際の代官が、完璧で問題がなかったとは言い難いですが、大半は真面目に職務をまっとうしていたことを踏まえたほうが良さそう――そんな良き時代の代官の典型例が伊奈親子でした。

 


なぜ忠次は影が薄いのか?

伊奈忠次は戦国武将というよりも、江戸初期の代官としての経歴の方が重要です。

舞台が戦国時代ではあまり目立たない。

生涯をたどると、何度か出奔もしており、戦場では裏方で活躍するほうが多い。

家康が実際に江戸にいた期間も短い。幕府が開くまでは上方にいて、将軍職を秀忠に譲ってからは駿府にいました。

ですので、関東平野の治水や行政にあたった伊奈忠次とは接点が薄くなっても、そこは致し方ないところです。

では『どうする家康』ではなぜ、当初の伊奈忠次の扱いが大きかったのにもかかわらず、ほとんど出番も見せ場もなかったのか。

経歴に謎が多くとも、大河ドラマで印象を残した人物はいます。

例えば『鎌倉殿の13人』における八田知家がその一例であり、本来は謎多き武士でしたが、劇中では土木工事担当者という位置付けとされました。

市原隼人さんの肉体美もあって話題をさらったものです。

しかし、伊奈忠次は結局そうならなかった。

後に東京へと続く都市の礎を作った方だけに、どこかで改めて注目されることを願っています。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
二木謙一『徳川家康』(→amazon
『徳川家康事典』(→amazon
『悪代官はじつは正義の味方だった 時代劇が描かなかった代官たちの実像』(→amazon

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