徳川家康は生涯で三度、絶体絶命のピンチに遭ったといいます。
1つめは家臣団が真っ二つに割れた三河一向一揆。
天正十年(1582年)6月4日、わずかな手勢と共に家康が伊賀の険しい山々を逃亡し始めたのですが、理由は他でもありません。
この二日前の6月2日に本能寺の変が起き、織田信長に続いて家康の命も危機にさらされたのです。
明智光秀や在地の武士、農民などに狙われるという、神君の生涯に3度あった命の危機の1つであり、かなり見応えのある逃避行でもあります。
前後の動向も合わせて振り返ってみましょう。
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武田家なくなり駿河で信長を接待
天正十年(1582年)3月、武田勝頼を死に追い込み、ついに武田家を滅ぼした織田信長。
それには徳川家の協力が不可欠であり、信長は大いに感謝しました。
三方ヶ原の戦いで武田信玄に殺される寸前になっても、ずっと加勢し続けたのですから、そりゃあ大切な存在ですよね。
実際、信長は、駿河国(現・静岡県)をまるごと家康に任せております。
その返礼として、家康は駿府一体に私財を投じて大工事を行い、新しく作った宿で信長をもてなしました。
長年の塩分過多な食生活で短気になっていたっぽい信長も大喜び。
もともと「互いに一度も裏切らなかった強固な同盟」の両者ですし、幼い頃から顔を見知っていた(といわれている)ので、お互い昔の不遇を思えば感激も一入だったでしょう。ええ話や。
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宴会には宴会で返す それができる男の流儀
この宴会がそもそも返礼ですので、ここでおしまいにしても良かったのです。
しかし、よほど嬉しかったのでしょう。
信長はさらに「(家康に)あんだけやってもらっといて、ハイ終わり、ではちょっとな。今度ウチに来いよ。ついでに京・大坂も見物してったらいいじゃん」(超訳)ということで、さらに安土城へ招いています。
この辺の気の使いようは高圧的な信長イメージからはかけ離れていますよね。まぁ、それは主にフィクションでの信長像なので、実際は常識人だった可能性も大いに考えられます。
家康としても「いやいや結構」と断るのは心証を悪くしかねませんし、信長の意向を受けて安土へ。
家臣たちは「返礼の返礼とか怪しくね?危ないんじゃね?殿を守るぞ、うぉおおおおお」(※イメージです)ということで緊張しまくっていたようですが。
人数は少ないながら、本多忠勝や井伊直政など、徳川四天王と呼ばれる人々を含めた、いわば精鋭中の精鋭がお供をしていました。
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後のことを思えばこれが良かったんですけども、物々しいにも程があるやろ。
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