護良親王

護良親王/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

護良親王が尊氏よりも父の後醍醐天皇を憎んだ当然の理由「武家よりも君が恨めしい」

建武2年(1335年)7月23日は護良親王(もりよししんのう)の命日です。

後醍醐天皇の皇子であり、鎌倉末期〜南北朝あたりの皇族としては、父親に次いで有名な方ではないでしょうか。

ただし、その名を後世に知られるのも、なんとも哀しい最期を迎えるからで、結論から申しますと足利尊氏の弟である足利直義に殺されてしまいます。

一体なぜそんなことになってしまったのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

 

若い頃は比叡山延暦寺へ

護良親王は前述の通り後醍醐天皇の皇子です。

母は民部卿三位という女性で、身元がよくわかっていません。

彼女の出自は北畠氏と勘解由小路(かげゆこうじ)氏の二説あるものの、前者だった場合は北畠親房といとこになるため、北畠氏との繋がりが濃くなっていたはずです。

後年の動きを見るとその影響はみられないので、勘解由小路氏説のほうが若干可能性が高いでしょうか。

護良親王が幼い頃は、祖父の後宇多法皇が存命中であり、以下のようになかなか厳しい立場に置かれていました。

「後醍醐天皇はあくまで中継ぎだから、ある程度経ったらさっさと甥(後宇多法皇の直系の孫)の邦良親王に位を譲るように! くれぐれも自分の息子を皇太子にしようだなんて思うなよ!」(超訳)

実際、護良親王は天台宗との繋がりを強める目的もあって、若い頃は比叡山延暦寺へ入れられています。

この頃は「尊雲法親王(そんうんほっしんのう)」「大塔宮(おおとうのみや)」と呼ばれていました。

お師匠様は覚雲法親王(かくうんほうしんのう)と承鎮法親王(しょうちんほうしんのう)という方で、どちらも後鳥羽上皇の血を引いています。

護良親王ならずとも、若い頃に接した人物の影響は大きいもの。

仏法とともに、承久の乱やその後における無念も伝え聞いたことでしょう。

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その後、護良親王は天台宗のトップである「天台座主」にも任じられました。

弟の宗良親王も比叡山の妙法院というお寺に入れられ、「尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)」と名乗っています。

二人の間に目立った逸話はないものの、他の兄弟に比べれば接点は多かったといえそうです。

元徳二年(1330年)3月に後醍醐天皇が延暦寺へ行幸したときには、ふたりとも儀式の担当者として父帝に接しています。

この行幸の後、護良親王が武芸を磨くようになったそうですので、倒幕に関する話も出ていたかもしれません。

 

自ら征夷大将軍を名乗っていた

父である後醍醐天皇は自らの血統で皇統を独占するべく、倒幕の動きを強めました。

しかし幕府にバレて二度失敗し、一度目は見逃され、二度目は隠岐へ流罪になってしまいます。

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二回目のときは後醍醐天皇が「中宮の安産」と称して祈禱を行わせており、護良親王のお師匠様である承鎮法親王が参加していたとのこと。

これを受けて、護良親王は周辺の寺社や諸国に倒幕の令旨(皇族の命令)を出しました。

このとき応じた武士の一人が楠木正成です。

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1332年には還俗して「護良親王」と名を改め、倒幕の中核に台頭すると、1333年には後醍醐天皇も隠岐を脱出し、足利高氏に連絡を取って味方につけました。

護良親王は京都近辺で高氏と合流し、六波羅探題を攻撃しています。

しかし、その途中で高氏に不審を覚えたのか、護良親王は六波羅探題攻略後も軍を維持し、信貴山で様子を見ることにしました。

明確なきっかけは不明ながら、この後の流れを考えると、護良親王は正しかったといえます。

また、護良親王は父帝に任命される前から「征夷大将軍」を名乗っていたこともあります。

源氏の直系が途絶えた後の鎌倉幕府では、藤原氏や皇族など、名ばかりの将軍が就任。

護良親王としては「我こそは名実揃った征夷大将軍になってみせる」と気合を入れていたのかもしれません。

また、倒幕後に入京した頃の護良親王について『増鏡』では、

「清らかな風情」

「唐の赤地の錦の鎧直垂」

「帝のお供に勝るとも劣らない武士を従えている」

と表現されており、征夷大将軍に見合った風貌や権威を備えていたことがうかがえます。

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