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【護良親王】
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父である後醍醐天皇に警戒され
【建武の新政】が始まると、後醍醐天皇は征夷大将軍の職を護良親王に認めました。
しかし、わずか数ヶ月で解任。
「護良親王が政権を作り、自分に対抗するのでは」と後醍醐天皇が警戒したからとされています。
建武の新政はあまりにお粗末「物狂いの沙汰=クレイジー」と公家からもディスられて
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このことを『太平記』では以下のように記述しています。
後醍醐天皇が寵姫・阿野廉子との間にできた義良親王(後の後村上天皇)を後継者にするため、護良親王の力を削ごうとし、失脚させた。
まぁ、ありえそうな話ですね。
護良親王の母である民部卿三位という女性はこの時点で既に亡くなっていたと思われ、母方からの支援もおぼつきません。
もしも母が北畠の出自であれば、周囲の動きも異なったものになっていたのではないでしょうか。
というのも、この年、護良親王の異母弟である義良親王が奥州将軍府に下向し、そのとき同行したのが北畠親房・北畠顕家父子だったのです。
もしも護良親王の母が北畠氏であれば、このとき奥州将軍府に向かったのは護良親王だったのでは? あるいは北畠父子が護良親王につけられ、中央で活動した可能性もあるのでは?
となると、やはり護良親王の母は北畠氏出身ではない……と思えてきます。
護良親王のことを警戒していた後醍醐天皇が自分の目の届くところに置いておきたかった、という可能性もなくはないですが……。
後に、北畠顕家は後醍醐天皇への上奏文の中で「朝令暮改を辞めてください」(意訳)と書いています。
後醍醐天皇のやったことに当てはまるものがありすぎて判断に困ってしまうのですが、もしも護良親王の征夷大将軍職をすぐ取り上げてしまったことも含まれているとしたら、北畠氏との縁も否定できなくなりますね。
新史料の発見が待ち遠しいところです。
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「武家よりも君(父・後醍醐天皇)が恨めしい」
征夷大将軍の座を欲っしていた足利尊氏は、目の上のたんこぶに等しい護良親王を煙たがっていました。
そこで尊氏は後醍醐天皇を動かします。
「護良親王が尊氏の暗殺計画を立てているという風聞がある」
そんな理由で、建武元年(1334年)10月、結城親光・名和長年らによって護良親王を逮捕させると、尊氏の弟・足利直義がいる鎌倉に送られました。
同時期に親王の配下だった者は捕えられ、三条河原で処刑されています。
なぜ後醍醐天皇が血の繋がった息子より尊氏を信用したのか?
理解に苦しむ場面ですが、室町幕府側の書物『梅松論』ではこの件について、護良親王が
「武家(尊氏)よりも君(父・後醍醐天皇)が恨めしい」
と言ったことにしており、親王の無念は広く知れ渡っていたようです。
比叡山にいた頃から父の意に沿うように努めてきたのに、事ここに至ってはしごを外されたのですから、恨みたくなるのも当然ですね。
いずれにせよ配下の命を奪われ、手足をもがれたも同然の護良親王。
当人の預かり知らぬところで、その命運は決められてしまいます。
建武二年(1335年)、信濃に落ち伸びていた北条氏の生き残り・北条時行が鎌倉奪還に動き、【中先代の乱】を起こしたのです。
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最期は足利直義に殺され
囚われの身だった護良親王は物理的にも政治的にもろくに動けませんでしたので、どちらの味方でもありません。
しかし、親王を監視していた足利直義は懸念します。
「時行に護良親王を担ぎ出されたりしたらマズイ……」
そこで直義が、鎌倉を出る直前に護良親王を暗殺させた……とされています。
マンガ『逃げ上手の若君』でもこの場面が描かれていましたが、最期を迎える直前に直義の手の者たちを煽り散らかしているのが印象的でした。
『太平記』には「刀を歯で防いだ」という記述があり、護良親王の無念・気概・誇りを見事なまでに表現しています。
直義にしてみれば、神輿となりうる懸念人物の命を奪っておくことは戦略として正しかったのでしょう。
しかし、その約17年後、直義自身が【観応の擾乱】の最後に、鎌倉で急死するとは皮肉なものです。
護良親王の死後、付き添っていた女房がなんとか逃げ延び、彼女の口から後醍醐天皇へ親王の暗殺が報告され、尊氏討伐の綸旨が出ました。
そもそも、後醍醐天皇が息子より他人を信じ、目の届くところに置いておかなかったことが失敗だったと思うんですけどね。
謹慎させるにしても京都で楠木正成か新田義貞あたりに預けておけば……というのは後世の人間だからこそ言えることでしょうか。
後醍醐天皇は当時の情報伝達速度を無視した感じの言動や政策が多いですが、護良親王もそれで運命を変えられてしまった一人といえます。
護良親王の最期は多くの人の涙を誘い、後年にもたびたび法要が営まれました。
明治時代になってからも、最期の地となった東光寺跡の近くに護良親王を祀る「鎌倉宮」が造られています。
鎌倉宮から徒歩5~6分のところには、護良親王のお墓も建てられました。
かなり急な階段の上にあるのですが、令和元年(2019年)の台風で被害を受け、しばらく立入禁止になってしまっているようです。
できるだけ早く元通りになることを祈るばかりです。
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長月 七紀・記
【参考】
新井孝重『護良親王:武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
森茂暁『皇子たちの南北朝: 後醍醐天皇の分身』(→amazon)
国史大辞典
日本人名大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
ほか