慶長16年12月30日(1612年2月1日)は平岩親吉の命日です。
大河ドラマ『どうする家康』ではお笑い芸人・ハナコの岡部大さんが演じ、当初は頼りない姿が印象的でした。
しかし史実では、家康の人質時代から付き添い、松平信康の傅役に抜擢されるほど信任を得ていて、しかも信康の自害事件後も重用されなど、徳川四天王と比して劣らず、徳川十六神将に数えられたりもします。
では実際どんな事績があったのか?
平岩親吉の生涯を振り返ってみましょう。
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家康と共に人質生活を送る
平岩親吉は天文11年(1542年)、三河国額田郡坂崎村に生まれました。
現在の愛知県額田郡幸田町坂崎となり、岡崎から南へ数kmという位置になりますね。
平岩家は代々松平氏に仕えてきた家柄であり、親吉も家康と同年だったため、幼い頃からその身辺に仕えています。
天文16年(1547年)に家康が人質となった際も、伴を務めていました。
このときの家康は、駿府に行く予定だったところ送り届ける役の戸田康光に裏切られ、織田家に引き渡されたとされますね。
親吉もそれに同行しているのです。
同行した家臣は他にも数名いましたが、同年で同じように育ってきた人物が身近にいたというのはまた別格であり、家康の心の支えになったのではないでしょうか。
親吉の元服は、時期と場所が判然としていません。
永禄元年(1558年)に初陣を果たしていますので、それ以前の可能性が高いでしょう。
ちなみに家康は天文24年(1555年)3月に今川氏のもとで元服し、永禄元年に寺部城主・鈴木重辰攻めで初陣しています。
家康嫡男・信康の傅役
永禄3年(1560年)、そんな二人に大きな転機が訪れます。
今川義元が【桶狭間の戦い】で織田信長に討ち取られ、紆余曲折を経て家康が岡崎城へ戻ったのです。
もちろん平岩親吉もその後に付き、岡崎へ帰還後も引き続き馬廻衆として家康に仕えています。
家康前半生の苦境といえば、永禄6年(1563年)~永禄7年(1564年)の三河一向一揆(三河一揆)が挙げられるでしょう。
親吉は浄土真宗の信徒であり、一揆方についてもおかしくない状況だったともされます。
しかし彼は家康に従い徳川軍で戦いました。
その後しばし時を経て、一見、非道に感じられるようなこともこなしています。
天正4年(1576年)12月、信長の意向を受けた家康の命で、家康母方の伯父である水野信元父子を誅殺したのです。
信元は、武田方と内通の疑いがかけられたためであり、親吉としては個人的な遺恨はないため、処刑後に涙していたともいわれています。
こうした仕事もこなした親吉ですから、もちろん家康の信頼も厚いものでした。
家康の長子・松平信康が元服した後、傅役(もりやく)を任されたのです。
徳川家の家督が信康に譲られた後も、親吉が家老として重い立場に就ける可能性が高まったことにもなり、大いに喜んでいたでしょう。
しかし天正七年(1579年)、信康に大きな災難が降りかかります。
織田信長に謀反を疑われてしまったのです。
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