18才で初陣を飾ってから、61年にわたって戦場に立ち続けた越前の名将・朝倉宗滴(そうてき)。
一族で頼りにされた、いかにも大黒柱という印象のある武将ですよね。
しかし、実情は異なるという指摘があります。
朝倉家の重要人物どころか、家中では引退を促され、陰口を叩かれ、当主から十分な恩賞を受けていないという不満も抱いていた。
そんな状況が本当だとすれば、なぜ朝倉宗滴は死ぬまで槍を置かなかったのか。
天文二十四年9月8日(1555年9月23日)はその命日。

宗滴の生涯を振り返ってみましょう。
父を失い家督から遠ざかった八男
朝倉宗滴が生まれたのは文明九年(1477年)のこと。
父は、同家を戦国大名に押し上げた初代・朝倉孝景であり、宗滴は八男でした。
本名は教景(のりかげ)で「宗滴」は出家後の名です。
「教」の一字は、室町六代将軍・足利義教から貰った、朝倉家にとっては特別な名前でした。

足利義教/wikimedia commons
しかし、宗滴は生まれて程なくして苦難に遭います。
文明十三年(1481年)に父は病没。
宗滴はわずか5才であり、長兄の朝倉氏景が家督を継ぐと、次の家督はその子の朝倉貞景へと受け継がれていきました。
八男に回ってくる機会などなく、後ろ盾となる父もいない。
このあたりから、宗滴の人生は
「朝倉家の中でどう生き延びるか?」
という問いに縛られていきます。
敦賀の乱で義兄を密告し郡司となる
朝倉宗滴が歴史の表舞台に出るのは、文亀三年(1503年)のことでした。
いわゆる「敦賀の乱」が勃発。
敦賀郡司だった朝倉景豊が、当主の朝倉貞景に対して謀反を起こし、結果、宗滴の立場は微妙なところに置かれてしまいそうになりました。
宗滴が景豊の妹を妻に迎えていたため、その計画に加わるものと目されたのです。
ところが結果は真逆でした。
宗滴が、当主の貞景へ計画を密告したため、乱は鎮圧され、景豊は自害へ追い込まれます。
そして宗滴は、乱鎮圧最大の功労者として、義兄に代わって敦賀郡司の座に就くこととなったのです。
結果だけ見れば「義理の兄を売って出世した」立場ですね。
しかし、当時の朝倉家を思えば、これは冷静な判断でもありました。
初代・朝倉孝景というカリスマを失い、

朝倉孝景/wikimedia commons
跡を継いだ氏景・貞景は越前の平定や守護斯波氏との争いを抱え、統率力は万全とは言えず、一族の内部でも殺し合いが起きていた。
例えば乱に加わった朝倉景総は、相撲にかこつけて弟の教景を殺害するなどして、一族内の情勢は不安定。
足元をすくわれれば終わりという世界で、宗滴は最適解を出したと言えるかもしれません。
九頭竜川で加賀一向一揆を退ける
敦賀郡司となった朝倉宗滴に対し、歴代の朝倉当主が求めたものは一つ――戦場での働きでした。
明応三年(1494年)に18才で初陣を飾って以来、彼は「軍奉行」として国の内外を駆け回っており、迎えた最大の山場が永正三年(1506年)でした。
同年7月15日、越前・越中・加賀・能登の一向一揆がいっせいに蜂起し、加賀から越前へなだれ込んできたのです。
九頭竜川を挟んで両軍が対峙するなか、総大将を任されたのが宗滴。
そして宗滴は、見事この大軍を退けます。
以後、加賀の一向一揆は生涯の敵となりました。
【意訳】加賀は父祖代々の敵国である。
これを滅ぼさずに無駄に年を送るのは、天下を取れないというだけの話ではない。
父祖の恨みを、黄泉の下で恥じさせることになるのだ
【原文】賀州ハ是父祖代々ノ敵国ナリ、彼ヲ亡ズシテ徒ニ年ヲ送コト、天下ニ取ルノミニ非ズ、殊ニハ父祖ノウラミヲ黄泉ノ下ニ羞シムル歎アリ
宗滴は、他家への援軍でも動いています。
近江の浅井亮政が六角家に攻められて苦しんだときには、当主・朝倉孝景の命を受けて小谷城まで駆けつけたこともあります。

浅井亮政の木像/wikimedia commons
浅井家と朝倉家の結びつきが始まったのはこの一戦がきっかけ。
後に浅井長政と朝倉義景が織田信長を挟撃することになりますが、それは宗滴の奮闘から始まっていたとも言えるのですね。
実子を廃して当主の子を養子に迎えた
かように宗家のため働き続けた朝倉宗滴。
忠臣ゆえに奮闘したのか?
実は朝倉宗滴が語った言葉は、右筆の萩原宗俊が『朝倉宗滴話記』にまとめており、多くの興味深い話が残されています。
そこで記されたのが、宗滴が陰口を叩かれていたということです。
四代目の当主・朝倉孝景が髪を下ろしたとき「宗滴も一緒に出家して一線を退くように」と家中から促されたのに晩年まで重用され続け、そのことに陰口を叩く者がいた、というものですね。
※この孝景は宗滴の父・英林孝景とは別人で、出家後は宗淳と名乗りました
宗滴自身、孝景に対してはこう述べています。
【意訳】たいした恩は受けていない
【原文】宗淳御恩ハ一向蒙リタル事ナク候
戦に強い熱血漢かと思ったら、思った以上に冷静な言葉ですよね。
幼くして父という後ろ盾を失っていた宗滴は、当主が代わるたびに自分の立場が不安定になっていくことを強く自覚していたのでしょう。
一例を挙げますと、自家の家督です。
宗滴は、実子がいたにもかかわらずその子を廃し、貞景の四男・朝倉景紀を養子に迎えたのです。
キッカケは、朝倉孝景の孫にあたる朝倉景純が、節句の席で家臣たちから冷淡な扱いを受けたのを目の当たりにしたことでした。
このままでは自分の子も家臣たちも、一族の末端に落ちて冷遇される――そう考えた宗滴は、こう書き残しています。
【意訳】情けない限りで、口惜しいことだ
【原文】不敏ノ至、口惜次第
そこで朝倉宗滴の一族と家臣団が軽んじられないよう、現当主の息子を養子に迎えたのですね。
研究者の長谷川裕子氏は、宗滴の人生を「朝倉氏家中で生き延び、自らの地位を維持するために、さまざまな知略を駆使し、戦場に立ち続けなければならなかった」と評しています。
生涯現役だったのは、有能だったからだけではない。
そうしなければ、立場が保てなかった。
しかし宗滴は、守りに入っていたわけではありません。
引退を促されても戦場に立ち続けた理由
『朝倉宗滴話記』には、加賀だけでなく他の隣国へも攻め込み、天下を取って当主・朝倉義景を京に置く――。
そんな戦略を夜な夜な飽きることなく考えていた、と記されています。
実際の朝倉家は、頼まれて他国へ援軍を出すことはあっても、自ら領土を広げに行くことはなく、その中で朝倉宗滴だけがただ一人、天下に号令する夢を抱いていたんですね。
そんな宗滴だけに、彼が語る大将の心得もなかなか具体的です。
例えば
・大軍を率いる大将は後方ではなく先頭に立て
という戦訓は19才のとき、義父の朝倉景冬に教わったことでした。
理由は、明快というか意外というか。
手柄を立てた兵が報告に集まってくるとき、大将が後ろにいては前線が手薄になってしまうからだそうで、思わず膝を叩いてしまいたくなる教えですね。
実際、朝倉宗滴は生涯12度の合戦のうち、3度は自分の武器に敵の血をつけた――つまり最前線に出て戦っていたと語っています。
残念なのは、それが朝倉義景には十分に継承されなかったことでしょうか。

朝倉義景/wikimedia commons
他にもこんな教えがあります。
・敵の作戦を知ることこそ最大の秘訣であり、そこまでできる器量を持った大将こそが名将だ
そのためなら、銭や金を渡してでも情報を引き出すことを重視していました。
朝倉宗滴は決して戦一辺倒の人ではなかった。
それどころか戦乱を逃れて越前へ来た文化人や、諸国を歩く連歌師と交流し、連歌会を開いたり講書会に出たり、さらには鷹を卵から育てたり、鮭を養殖したりする研究まで行っていたそうです。
79才まで現役でいられたのもわかる、好奇心旺盛な方だったんですね。
夜ごと天下取りを考えた軍奉行
不安定な家中で、必死に生き残る術を模索していた――そんな朝倉宗滴の事績を辿ると、決して華麗な名将とは言えないかもしれません。
しかし、非常に地に足のついた“泥臭い名将”とは言えそうで、余計に好感度は上がりそうです。
そんな宗滴の最期は天文二十四年(1555年)9月のことでした。
同年8月、加賀一向一揆との合戦中に、自陣で倒れた宗滴は一乗谷へ戻り、医者に薬を調合してもらって静養しますが、9月8日に息を引き取ります。
享年79。
18才の初陣から数えて、61年が経っていました。

当時の人々は宗滴のことを「智・仁・勇の三徳を兼ね備えた名将だ」と称えました。
一時期は「家中で煙たがられて引退を促され、それでも槍を置かなかった男の評価」としては、悪くない締めくくりではないでしょうか。
なお宗滴の死後、朝倉家は坂道を転がるように傾いていきます。
18年後の天正元年(1573年)、一乗谷は織田信長に焼かれ、朝倉家は滅亡。
宗滴が夜ごと練っていた天下取りの構想を、代わりに実現した男の手によって滅ぼされてしまいました。
なお、信長に討たれた朝倉義景の生涯については以下の関連記事をご覧ください。
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朝倉義景の生涯|信長を二度も包囲しながら逆に追い詰められた越前の戦国大名
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【参考文献】
- 長谷川裕子「朝倉宗滴(教景)」(山田邦明編『戦国武将列伝5 北陸編』所収 2025年6月 戎光祥出版)
- 松原信之『朝倉氏と戦国村一乗谷』(2017年1月 吉川弘文館)

