賤ヶ岳の七本槍といえば秀吉子飼いの若武者たちとして知られ、そのうち何名かは大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目されています。
しかし、彼らは本当に七名だったのでしょうか。
合戦直後に記された『柴田退治記』に「七本槍」という言葉はなく、一番槍の近習として挙げられるのは九名。
一方、この戦功に対する秀吉の感状は八通しか確認されていません。
これは一体どういうことなのか?
まずは七本槍メンバーから確認して参りましょう。
余呉湖畔の柴田軍へ突撃した七本槍
楠戸義昭氏の著書『激闘!賤ヶ岳』で挙げられている七名の顔ぶれと年齢は以下の通りです。
20代前半が3人いて、後に肥後52万石の大大名となる加藤清正はこのとき22歳。
彼らが名を挙げた賤ヶ岳の戦いは、天正十一年(1583年)4月21日に決戦を迎えました。
軍記物などでは、このとき秀吉が虎皮の陣羽織に百姓笠という格好で、自ら法螺貝を吹き鳴らしたとも記録されています。
「手柄を立てる時はいまぞ。われと思わん者どもは行け!」

絵・富永商太
叱咤された若者たちが斜面をくだって余呉湖畔へ突撃し、柴田勝政の軍勢に槍で突きかかった――これが世に名高い七本槍の功名とされています。
※余呉湖の海抜は132mで賤ヶ岳からの比高差は289mですので、崖に等しい急斜面でした
『柴田退治記』が挙げているのは九人
では、その直後に書かれた記録はどうなっているのか。
大村由己という人物の著書『天正記』、その中の「柴田退治記」に該当の場面があります。
研究者によっては「柴田合戦記」とも呼ばれる巻ですね。
秀吉のそばに仕えていた人物が合戦直後に書いたものですから、史料価値は高いですが、秀吉の命で書かれた記録でもあるため脚色の可能性には注意が必要とされます。
そこにはこう記されています。
【意訳】賤ヶ岳の戦いの柳ヶ瀬で、敵を切り崩した一番槍はことごとく秀吉の近習たちであった
【原文】今度柳ヶ瀬表、秀吉切り崩すところの一番鎗は悉く近習の輩なり

『賤ヶ嶽大合戦の図』(歌川豊宣)/wikipediaより引用
続けて名前が並び、それが以下のメンバーです。
福島市松正則
脇坂甚内安治
加藤孫六嘉明
加藤虎介清正
平野権平長泰
片桐助作直盛(且元)
糟屋助右衛門尉武則
桜井左吉家一
石河兵介一光
通称を含む当時の表記で、一番槍として名が挙がるのが九名であり、注目はやはり最後の二名でしょう。
桜井左吉と石河兵介。
彼らは一体何者で、なぜ七本槍に入っていないのか。
※桜井左吉は「桜井佐吉」、石河兵介は「石川兵助」とも記されます
「戦いの直後には七本槍という呼び名はなかった」と楠戸氏が指摘するように、『柴田退治記』には「七本槍」という記述がないんですね。
しかも、さらにややこしいことに、秀吉の感状は前述のとおり八通しか確認できません。
加藤清正宛の感状だけ現存しない
感状とは、戦功を挙げた武将に主君が与える証明書のようなもので、彼らの名誉にもなります。
賤ヶ岳の戦いにおける感状を整理したのは研究者の大浪和弥氏。
秀吉子飼い武将としてお馴染みの福島正則宛をはじめとした原物が5通、片桐且元宛などの写しが3通あり、いずれもほぼ同じ文面で計8通が確認されるとしています。
※大浪和弥「加藤清正と畿内―肥後入国以前の動向を中心に―」(山田貴司編著『加藤清正 シリーズ・織豊大名の研究2』所収)
一体なぜ八通なのか。
原物も写しも残っていないのは誰なのか。
意外にも加藤清正です。

加藤清正/wikimedia commons
ただし大浪氏は、清正にも感状は出されていたはずだと判断しています。
なぜなら清正以外の八名への感状には、褒美として領地を与える旨が書かれており、清正にも同様の領地が与えられたからです。
天正十一年(1583年)8月1日付の知行宛行状(領地証明書のこと)で、清正には、近江・山城・河内の三か国から3000石(正確には2947石)が与えられました。
ただし、恩賞には差がついています。
一番槍かつ一番首という抜群の功を立てた福島正則だけが5000石。
残る六人と、七本槍から外れた桜井左吉を加えた八人が3000石でした。
彼らの多くは後に大名となりますが、平野長泰は最終的に5000石で大名にはなっていません。

平野長泰の浮世絵/wikimedia commons
七本槍で最も有名な清正だけ感状が残っていないのは不自然……と思いきや、17世紀の中頃に成立した『清正記』という伝記に、秀吉の感状とされるものが収録されています。
失われたはずの一通が、なぜそこにあるのか。
『清正記』に収められた感状は偽文書か
史料を整理した大浪氏の答えはシンプルなものでした。
『清正記』に掲載される感状は、他の八通と文面がまったく異なるため、偽文書であろうという判断。
肥後入国以前の事績については、清正の武将イメージを高めるために創作された文書が散見されるというのです。
ちなみに清正が戦場で活躍したことを示す一次史料は驚くほど少なく、おそらく賤ヶ岳の戦いが唯一とのことでした。
肥後の猛将として知られる清正なのに、若い頃の武勇伝を裏づける同時代の史料がほぼない。
だからこそ後世に盛られたとも言えるんですね。
では本槍から外れた石河兵介は桜井左吉どうか?
石河兵介と桜井左吉
石河兵介は、残念ながら賤ヶ岳の戦いで討死しています。
そのため弟の長松が、一番槍の感状と1000石を受け取りました。

石河兵介(石川兵助)の浮世絵/wikimedia commons
一方、桜井左吉には、壮絶な逸話が残ります。
もともと秀吉の小姓だった左吉は、このころ秀吉の弟・羽柴秀長のもとに移されていました。
賤ヶ岳で突撃したときは、木陰に潜んでいた敵に槍で突かれ、30mも崖下に転落して動かなくなります。
「死んでしまったか……」
秀吉たちがそう思っていたら、しばらくするとむっくり起き上がり、兜の前立ては砕け、顔からは血が流れている。
それでも槍を掴んで腹這いで斜面を下り、自分を突いた敵を見つけて首を取ると、槍の穂先に突き刺し、賤ヶ岳の山頂に向けて掲げたと伝わります。
そんな派手な逸話が残されているのに、七本槍には入っていない。
一体なぜ?
楠戸氏は、左吉が秀長の家臣だったため七本槍から外されたと説明します。
恩賞そのものは、他の七名と同じ3000石を受けているにもかかわらず、七名が七本槍として重視されたのは「秀吉の直臣」だったから。

片桐且元の肖像画/wikimedia commons
そもそも槍を持って突っ込んだのが七名だけだったのか?という根本的な疑問もあるでしょう。
楠戸氏によれば、一番槍を狙って斜面を滑り降りた勇者は七名でも九名でもなく、実は二十名ばかりいたとのこと。
彼らは12〜14mほどの間隔で真横に広がり、二十名が斜面を駆け下りて一斉に突っ込むと、その後ろにも百名が続いていたとか……。
七本槍の功名からは、想像しにくい光景ですよね。
それにしても、なぜ“七”なのか。
“八”や“九”では都合が悪い理由でもあるのでしょうか。
注目は賤ヶ岳から遡ること約40年の戦いです。
なぜ賤ヶ岳の七本槍になったのか
天文十一年(1542年)、織田信秀と今川義元が三河の小豆坂で激突しました。
小豆坂の戦いと呼ばれ、このとき目覚ましい活躍をした信秀方の七名が「小豆坂の七本槍」と称されたのです。

織田信秀像/wikipediaより引用
この小豆坂の七本槍をまねて、賤ヶ岳の七本槍が生まれたのだろうと楠戸氏は指摘。
※小豆坂の戦いは天文十七年(1548年)にもあったとされます
なぜ、そんなことが必要だったのかというと、農民出身の秀吉には代々仕える家臣団がおらず、自前で強力な家臣団を用意する必要があった。
ゆえに賤ヶ岳の戦いで活躍した直臣の馬廻り衆に破格の恩賞を与え、天下人となった後、秀吉自身とその周辺が「七本槍」を盛んに宣伝したというのですね。
それだけに石河兵介と桜井左吉も一定の武功がありながら、名前は消えてしまった。
歴史の常とはいえ、哀しい2人であります。
なお、秀吉が作り上げた家臣団の関連記事が以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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下層階級出身で譜代家臣のいない秀吉|どうやって羽柴家臣団を作ったか?
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【参考文献】
- 楠戸義昭『激闘!賤ヶ岳』(2018年7月 洋泉社)
- 山田貴司編著『加藤清正 シリーズ・織豊大名の研究2』(2014年11月 戎光祥出版)
【TOP画像】上段左から脇坂安治・加藤清正・福島正則/下段左から糟屋武則・加藤嘉明・片桐且元/wikimedia commons

