豊臣秀吉が、信長や家康と比べて圧倒的に不利だったこと。
それは「代々仕えてきた家臣がいなかった」点でしょう。
例えば信長が家督を継いだ頃の織田家には林秀貞や佐久間信盛、柴田勝家などがいて、徳川家康には石川数正はじめ本多忠勝やら酒井忠次やら、数多くの家臣が最初から揃っていました。
それに引き換え、秀吉はどうか?
下層階級の出身ゆえ家臣などいるはずもなく、貴重な血縁者にしても男は豊臣秀長ぐらいという有り様。
こんな調子では普通大名になんてなれません。
しかし、それを乗り越えてしまうのが秀吉の凄さですね。
長浜城主になってから石田三成や藤堂高虎、片桐且元など有望な若者を召し抱えていったのは、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれました。
あれは一体どこまで史実だったのか?

イラスト/富永商太
秀吉が羽柴家臣団を構築していった当時を振り返ってみましょう。
信長や家康と違い譜代の家臣はいない
戦国武将の強さは、本人の能力だけで決まるものではありません。
どれだけ優秀な家臣を抱えているか、信頼できる古参が周囲にいるか――。
その点が、秀吉のような新興の武将との大きな違いであり、信長にせよ家康にせよ、古くから仕えてきた人材が数多く揃っていたというのは前述の通りです。
一方の秀吉はどうか。
本当に家臣はいなかったのか?
例えば若いころ、美濃攻略のために働いていた頃は?
秀吉が「木下藤吉郎」と名乗っていた頃から関わりがあったとされる人物が数少ないながら存在します。
尾張の土豪出身の蜂須賀正勝(蜂須賀小六)です。

蜂須賀正勝/wikipediaより引用
フィクションでは秀吉の親友のように描かれることも多く、「墨俣一夜城」などの逸話でも欠かせない人物ですが、史実として確認するのは難しい話です。
しかし、蜂須賀正勝が早い段階から秀吉の周辺にいた有力者だった可能性は高いでしょう。
彼ら三者については後世の物語の影響もあり、例えば婚姻関係や親族的な結びつきは不明瞭な部分もあります。
それでも彼らは羽柴家臣団には欠かせない重要人物。
駆け出しの頃の秀吉は、地縁や実務能力を持つ人物を取り込みながら、自前の人脈を作っていったのですね。
蜂須賀、前野、生駒らは「持たざる者の人脈」を考えるうえで欠かせない存在といえるでしょう。
竹中半兵衛は「軍師」ではなく与力?
秀吉初期の家臣として語られる人物といえば竹中重治――いわゆる竹中半兵衛がいます。

竹中半兵衛/wikipediaより引用
秀吉の「軍師」として知られ、黒田官兵衛と並んで「秀吉の両兵衛」と称される半兵衛。
当時の武家社会に「軍師」という正式な役職があったわけではなく、後世の軍記物や講談が作り上げたイメージとなります。
竹中半兵衛はもともと美濃斎藤氏に仕える武将でした。
それが永禄十年(1567年)に主君の斎藤龍興が美濃を追われると、主君を失った半兵衛は信長に仕えることになり、そこから秀吉の与力として活動したと見られます。
元亀元年(1570年)以降の浅井氏攻略では、秀吉軍の一員として調略に関わったと目され、この頃には行動を共にしていた可能性が高い。
実際の半兵衛は、軍師というより、美濃・近江方面に通じた実務家でした。
長浜城主となり自前の家臣団が必要となる
天正元年(1573年)、羽柴秀吉に大きな転機が訪れます。
浅井長政が滅亡し、長浜城主となったのです。
単なる出世頭から城を預かる領主となり、その立場は激変しました。
城を持てば領地を治めなければならない。
年貢の管理、城の普請、兵の動員、周辺勢力への対応など、やるべきことは一気に増加。
そのために多くの家臣が必要となります。
つまり長浜城主になったからには、自前の組織が必要になったのであり、本格的に「羽柴家臣団」の組織づくりに着手することになりました。
そこで集めたのが元浅井家臣の宮部継潤、あるいは地元の若者である石田三成や片桐且元など、後の豊臣政権でも中枢を担う者たちです。
宮部などは即戦力として。
三成や且元などは育成しながら。
秀吉の長浜時代は若者と経験者の取り込みが同時に進んだ時期でした。
清正や正則らの子飼いは長浜で育てられた
長浜時代の家臣団で外せないのが、加藤清正と福島正則です。

加藤清正/wikipediaより引用
加藤清正は永禄五年(1562年)生まれ。
母が秀吉の親族にあたるとされ、天正二年(1574年)頃に長浜へ出て、秀吉に仕え始めたとされます。
当時はまだ十代前半の若者ですから、即戦力ではなく秀吉のもとでじっくり育てられていく存在でした。
次に、秀吉の子飼いとしてお馴染み、福島正則に注目してみましょう。

福島正則/wikipediaより引用
正則は永禄四年(1561年)生まれ。
秀吉の親族筋とされ、幼いころから仕えていたと伝わりますが、正確なところは不明です。
天正十一年(1583年)「賤ヶ岳の戦い」では大きな武功を挙げており、コツコツと経験を積んできたのでしょう。
長浜時代から経験を積んでいた可能性は高そうです。
ここで忘れちゃいけないのが秀吉の妻・寧々(おね・後の北政所)ですね。
清正や正則ら「秀吉子飼い」の若者たちは、単に戦場で鍛えられた部下ではなく、長浜城の秀吉と寧々のもとで、家族ぐるみに近い形で育てられたと見られます。
譜代家臣を持たなかった秀吉にとって、城内で若者を育てるという経験は、家臣団構築で最も重要なことだったかもしれません。
清正や正則を早い段階から抱え込んだことが、後の羽柴家臣団の厚みに繋がりました。
宮部継潤など浅井の旧臣も取り込み
長浜時代からの家臣団で、子飼いの若者と同様に重視されたのが地元近江の人材です。
秀吉が長浜城主となったのは浅井長政が滅びた後のこと。
当然、旧浅井家臣たちは近隣におり、土地の事情を知る者、その他の旧浅井家臣たちと交渉できる者、領地運営支配を動かせる実務家が不可欠でした。
そこで見逃せないのが宮部継潤(けいじゅん)です。

かつて浅井長政に仕えた人物で、湯次神社の社僧でもあった宮部。
浅井滅亡の前後で秀吉のもとへ降り、その後は近江事情に詳しい人物として重用されました。
後には鳥取城代にもなり、そこで宮部継潤は鮎漁の権利認定や諸税の免除など、地域の実情に即した政策を実行し、統治にも関わったとされます。
清正や正則は、秀吉に育てられた武功派。
宮部継潤は、新たな領国支配のため秀吉のもとへ転じた実務派。
秀吉は、こうした人材を巧みに取り入れ、自前の組織に役立てていきました。
三成や且元ら近江の才ある若者たち
長浜時代には、地元の有望株も集められました。
その代表例が石田三成でしょう。

石田三成/wikipediaより引用
三成といえば関ヶ原の戦いで徳川家康と対立したことで知られますが、長浜期はまだ十代前半の小姓・見習い段階でした。
最初からいきなり財政実務を任されたわけではありません。
有名な「三献茶」もあくまで逸話ですが、地頭の良さが際立っていたからこそ秀吉と寧々に育てられたのでしょう。
三成と同じく大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目された片桐且元はどうか?
片桐氏はもともと浅井家に関わる一族であり、且元の父・片桐直貞は浅井家臣だったとされます。
且元も天正二年(1574年)ごろから秀吉に仕えたとされ、この時点ではまだ小姓・見習い段階でした。
大谷吉継は……慎重さが必要です。

絵・富永商太
三成の友として知られる吉継も、後の豊臣政権で重きをなす人物ですが、出仕時期は不明で、出自にしても近江出身説だけでなく豊後出身説もあります。
確実に史料に登場するのは天正十一年(1583年)頃、つまり本能寺の変後であり、長浜時代からの人物とは断定できません。
脇坂安治や山内一豊も長浜期から
長浜時代の秀吉のもとには、後に大名となる人物たちも集まりました。
例えば脇坂安治もその一人。

脇坂安治/wikipediaより引用
元々は明智光秀に仕えていたともされ、羽柴家での仕官時期や経緯には不明点があります。
天正四年(1576年)までには秀吉から知行を与えられ、羽柴家臣団に加わっていた可能性が高いですね。
また山内一豊や加藤嘉明、平野長泰らも、比較的早い時期から秀吉の周辺にいたとされる人物です。
山内一豊はのちに土佐一国を与えられる大名となり、加藤嘉明や平野長泰は「賤ヶ岳の七本槍」として名を残しました。
いずれも長浜時代は、まだ何者でもなかった若者たち。
秀吉は彼らに役目を与え、戦場に出し、実務を覚えさせることで、羽柴家臣団を形成していきました。
後に豊臣政権を支える人材の原型は、この時期に集められていたんですね。
そう考えると豊臣五奉行の増田長盛あたりも長浜期の人材なの?というイメージも湧くかもしれませんが、実態は不明です。
長浜期の人材とは断定せず、後年に頭角を現した実務家と考えるほうが適切でしょう。
秀長にも家臣団は必要だが
豊臣秀吉の家臣団を考えるうえで、弟の豊臣秀長は外せません。
秀長は単なる身内ではなく、最も信頼できる補佐役であり、後には大和・紀伊・和泉を支配する大大名にもなる人物です。

豊臣秀長/wikimedia commons
そんな秀長自身にとっても長浜時代は重要な時期でした。
天正三年(1575年)頃から長浜領内に所領を与えられ、自分の家臣団を編成し始めたと見られます。
代表例として挙げられるのが藤堂高虎や小堀正次ら近江衆です。
高虎は後に徳川政権でも家康に重宝されますが、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれているように若い頃は秀長に仕えておりました。
つまり秀吉だけが人材を集めていたわけではなかった。
というのも秀長は、兄の名代として軍勢を率い、大名外交や領国統治でも豊臣政権の柱となります。
それだけに自身の家臣団も必要としたのです。
中国地方の攻略で官兵衛が加入
最後に中国地方攻略期を見ておきましょう。
このころの秀吉に仕えた武将として最も有名なのが黒田官兵衛ですね。

黒田官兵衛/wikimedia commons
竹中半兵衛と並び「両兵衛」と称される官兵衛は、それ以前は播磨の小寺政職に仕え、当初は使者として織田信長に接していました。
状況が変わり始めたのは天正五年(1577年)、秀吉が中国攻略の拠点として姫路城に入った頃です。
ここから両者の関係は一気に深まっていきます。
姫路城を中国攻略の拠点として提供し、さらに荒木村重の謀反と有岡城幽閉事件を経て、両者の結びつきは強固になっていくのです。
村重の説得に向かい有岡城に幽閉された官兵衛は、天正七年(1579年)に救出され、約1年間の幽閉生活により足に障害を負ったとも伝わります。
官兵衛が羽柴家臣団へ本格的に組み込まれていくのは、この有岡城幽閉事件の前後と見るのが自然でしょう。
当然ながら官兵衛は「子飼い」ではありません。
播磨の現地事情に通じ、外交・調略・軍事に長けた人物として、中国攻めに必要不可欠となった。
官兵衛は、秀吉が方面軍司令官を担う上で欠かせない、播磨・中国方面の専門家タイプの家臣といえます。
「長浜の地方組織」から「中国方面を担当する軍事・外交組織」へ――羽柴家臣団の成長過程を示す登用と言えるのではないでしょうか。
秀吉の強みであり弱みでもあった
秀吉の家臣団を整理すると、大きく3つに分けられます。
・長浜時代から育てられた子飼い武将
・近江支配のために取り込んだ即戦力
・中国攻略で追加された武将たち
具体的な名前を挙げていくとこうなりますね。
◆長浜期から中国攻め前夜にかけての主な羽柴家臣団・周辺人材
・蜂須賀 正勝
・前野 長康
・生駒 親正
・竹中 半兵衛
・加藤 清正
・福島 正則
・宮部 継潤
・石田 三成
・片桐 且元
・脇坂 安治
・山内 一豊
・加藤 嘉明
・平野 長泰
・黒田 官兵衛
・豊臣 秀長
・藤堂 高虎
・小堀 正次
最初期から行動を共にしていた蜂須賀や前野、生駒や半兵衛は例外的な存在。
あくまで加藤清正や福島正則、石田三成のような子飼いの若者を中心に、宮部継潤のような旧浅井家臣などの現地実務型の人物が用いられた。
こうした育成方法が花開いたからこそ、秀吉は中国地方へ進出する段階になっても、織田家中で急速に存在感を高めることができたのでしょう。

豊臣秀吉/wikimedia commons
本能寺の変から天下取りまでの道のりもそうです。
ただし、よく指摘されるように、彼らの結びつきは家と家というより、個人と秀吉でした。
豊臣秀吉という傑物の求心力に大きく依存した面があり、当人が死んでしまえば途端に体制が揺らいでしまう。
三成と清正・正則らの対立はそのわかりやすい例であり、その不安定さが後に徳川家康の台頭を招く一因になったとも考えられます。
秀吉一代で急速に作り上げた家臣団には、強さと同時に、政権継承時の難しさも抱え込まれていたのかもしれません。
参考文献
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人』(2025年10月 KADOKAWA)
- 黒田基樹『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』(2025年9月 講談社)
- 柴裕之編著『豊臣秀長』(2024年11月 戎光祥出版)
- 柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』(2020年7月 戎光祥出版)
- 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』(2016年11月 KADOKAWA)
- 山本博文『天下人の一級史料 秀吉文書の真実』(2009年6月 柏書房)
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』(1979年3月〜1997年4月 吉川弘文館)
- 上田正昭ほか監修『日本人名大辞典』(2001年12月 講談社)
