織田信長は49年の生涯で幾度も多くの敵に囲まれました。
浅井朝倉連合軍、石山本願寺、武田信玄、足利義昭――。
そして天正年間に入ると、上杉謙信・毛利氏・本願寺・松永久秀らが、各方面から信長を圧迫していきます。
いわゆる「第三次信長包囲網」です。
彼らの連携が完璧に機能していたら、さすがの信長も本気で危なかったのでは?とも思われる、第三次信長包囲網とは実際どういう状況だったのか。

織田信長/wikimedia commons
当時を振り返ってみましょう。
第三次信長包囲網とは?
最初に「第三次信長包囲網」という語句から確認しておきましょう。
この言葉、当時の人々が正式にそう呼んでいた名称ではありません。
天正四年(1576年)以降に活発化した、
・足利義昭
・石山本願寺
・毛利勢
・上杉謙信
・松永久秀
といった反信長勢力が結果的に織田家を取り囲んだ――その状況を後世の私たちが便宜上「第三次信長包囲網」と呼んでいるだけです。
研究者によっては「第二次信長包囲網」と呼ぶ場合もあり「第一次・第二次・第三次」という区分すら絶対ではありません。
本記事では「第三次信長包囲網」として進めますが……まずこの体制は彼らが一堂に会して
「織田信長を多方面から一気に叩こう!」
と決めたわけではありません。
それぞれの動きが同時期に重なったものでした。
北陸では上杉謙信。
大坂(石山)では本願寺。
瀬戸内・中国方面では毛利氏。
畿内では松永久秀。
彼らの背後には、京都を追放され、毛利勢のもとに身を寄せる足利義昭の存在もあります。

左から毛利輝元・足利義昭・顕如・松永久秀・織田信長・武田勝頼・上杉謙信/wikimedia commons
上洛を果たしてからの織田信長は、常に多方面の敵と同時に戦わなければならないような状況でした。
長篠の勝利で負担は軽減
天正三年(1575年)5月、織田徳川連合軍は「長篠の戦い」で武田勝頼に大勝しました。

武田勝頼/wikimedia commons
この勝利により、かつて信長を追い詰めた武田氏の脅威は大きく後退。
浅井朝倉を滅ぼした後に活発化していた越前一向一揆も制圧して、中央での支配を盤石にする信長は、各方面へ家臣団を配置していきます。
中国方面には羽柴秀吉。
丹波・畿内方面は明智光秀。
北陸方面へ柴田勝家。
各エリアの責任者に攻略の進捗を一任する「方面軍」という体制は、信長の勢力拡大を示す一方、問題がないわけでもありません。
戦線が増えすぎるのです。
北陸・大坂・中国・畿内の各地で同時に火の手が上がり、勝ち続けているように見える織田政権も、実は危うい綱渡りの連続でした。
「第三次信長包囲網」とは、まさにそのタイミングで姿を現したのです。
足利義昭は京都を追われても終わらず
第三次信長包囲網で最も重要だったのは誰か?
一人挙げるとすれば足利義昭でしょう。多くの方にとっては意外かもしれません。

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)/wikimedia commons
信長との戦いに敗れ京都を追放された義昭は、備後の鞆(とも・広島県福山市)へ移り、その後、亡命者として静かに余生を過ごす人物ではなかった。
将軍としての名分を保ちながら、毛利氏・本願寺・武田氏・上杉氏などへ御内書を発給し、反信長勢力の結集を促し続けたのです。
研究者の山田康弘氏は『信長研究の最前線』(日本史史料研究会編)の中で、足利義昭が鞆に移った後も反信長派大名と結びつき、将軍としての政治的役割を保っていたことを指摘しています。
つまり、京都から追い出されて終わりではなかったんですね。
信長の敵対大名たちにとって、義昭はなお「将軍」という大義名分を与えてくれる存在であり、彼らは「逆臣の織田信長を誅すべし!」というスタンスでいられた。
むろん毛利氏には毛利氏の、本願寺には本願寺の事情があり、全員が義昭のいうことを聞いたわけではありません。
しかし、それでも義昭が反信長の旗印だったのは事実。
逆に信長にとっては、倒しても倒しても消えない政治的な火種となっていました。
本願寺と毛利氏による大坂湾の連携
第三次信長包囲網で、もう一つの注目が石山本願寺です。
元亀元年(1570年)9月に織田家と対立して以来、合間に和睦を挟みながらも常に戦いを続けてきた彼らは織田軍にとって長年の難敵でした。
顕如を筆頭とする本願寺は非力な寺院ではありません。

顕如/wikimedia commons
大坂の要害に拠点を構え、各地の一向一揆とも繋がる巨大な武力勢力です。
実際、織田信長は何度も本願寺と戦い続けてきましたが、相手を崩すどころか、自身が鉄砲で狙われて傷を負ったことすらありました。
その石山本願寺を支えていたのが毛利氏です。
中国地方の大大名が海上から兵糧などの物資を運び込む限り、信長は本願寺に対しての兵糧攻めは徹底できない。
天正四年(1576年)7月の「第一次木津川口の戦い」では、織田水軍は毛利水軍に敗れています。
毛利水軍は「焙烙火矢(ほうろくひや)」と呼ばれる武器を用いて織田方の船を焼き崩して、本願寺への兵糧搬入を成功させました。
織田勢にしてみれば最悪のコンビです。
畿内の中心に本願寺が残り、その背後には毛利氏と強力な水軍がいて、海から補給されるとなれば陸上から包囲しても効果はない。
瀬戸内海→大坂湾→兵糧輸送→海上封鎖――石山本願寺には、これまで織田勢が対峙したことのない状況が立ちはだかっています。
しかし、第一次木津川口の戦いで敗れたままで終わらないのが信長でした。
水軍の敗北から何を学んだか
天正六年(1578年)11月に「第二次木津川口の戦い」が起こります。
織田水軍は、信長の命で建造されたという大型船を九鬼嘉隆らが率いて、毛利水軍に対抗。

九鬼嘉隆/wikimedia commons
いわゆる「鉄甲船」ですね。
名前からして鉄に覆われたような雰囲気もありますが、実際どんな船なのか、詳細は不明です。
研究者の藤本正行氏は『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』で、第二次木津川口の戦いに用いられた大型船について、第一次木津川口の敗北を踏まえた現実的な対策として位置づけています。
負けたら学ぶ――この現実を踏まえた修正力が、信長の長所でもあり、事実、二度目の木津川口の戦いでは織田軍の勝利となりました。
第三次信長包囲網が本当に危険だったのは間違いありません。
されど各方面で押されっぱなしだったわけでもない。
大坂湾では水軍を強化し、北陸では柴田勝家に対応させ、中国方面では羽柴秀吉を動かして、畿内の反乱にも対処する。
こうした同時対応力が、信長を生き残らせたのです。
第三次信長包囲網の山場は手取川
第三次信長包囲網で最大の脅威になり得たのが、上杉謙信です。
謙信といえば、武田信玄との川中島の戦いで知られる戦国屈指の名将であり、その謙信が晩年、目を向けていたのが北陸地方でした。
信長はすでに加賀・越前方面へ勢力を伸ばし、柴田勝家を配置した同地方は、謙信にとっても重要なエリア。
春日山城から西へ向かい京都へ出るためには、北陸道が大きな課題であり、そこで焦点となったのが能登の七尾城です。
能登畠山氏が本拠とする七尾城は北陸でも有数の堅城として知られ、織田方にとっては、上杉軍の西進を防ぐ重要拠点でした。
信長と謙信の勢力圏がぶつかる北陸戦線の要だったんですね。

上杉謙信/wikimedia commons
天正五年(1577年)9月、上杉謙信が七尾城を攻めると、織田方は柴田勝家らが救援に向かいました。
あくまで上杉軍に包囲された七尾城を救うためです。
しかし、同城は織田軍の到着前に陥落。
その情報が十分でないまま進んだ織田軍と手取川方面で上杉軍とぶつかった――これが手取川の戦いです。
一般的には「上杉謙信が織田軍を大勝した合戦」として知られますが、詳細はほとんど記録に残されていません。
軍記物では、織田軍の大敗として語られるも、同時代の史料には確たる記録がないのです。
近年の研究では、七尾城の陥落を知って撤退する織田軍が上杉軍に追撃された、さほど大きくはない局地戦だったのでは?という指摘すらあります。
『信長公記』にも、それらしき記述はない。
しかし、信長にとって重大な敗戦だったのは間違いありません。
北陸方面を任せた柴田勝家が上杉軍を止められず、七尾城を奪われたのですから、もしも謙信がさらに西へ進んできたら織田勢は北から強烈な圧迫を受けることになる。
手取川の戦いは第三次信長包囲網の中で最も重要な局面の一つでした。
包囲網の中での秀吉離脱
手取川の戦いでは、戦いの直前に羽柴秀吉が離脱した話がよく語られます。
柴田勝家と軍議で対立した秀吉が勝手に陣を離れたという話で『信長公記』にも記されています。

柴田勝家/wikipediaより引用
後の「賤ヶ岳の戦い」を知っていると、いかにも「秀吉と勝家の対立の始まり」に見えますが、秀吉が離脱したから勝家が負けたと結論づけるのは早計。
なんせ手取川の戦いは、前述の通り局地戦だった可能性も指摘されるほど実態が不明です。
秀吉の離脱は大問題ながら、むしろ注目すべきはこのときの織田勢が同時に多くの戦線を抱えていたことでしょう。
北陸では上杉。
大坂の本願寺。
中国方面からは毛利。
畿内でも松永久秀の謀反。
研究者・和田裕弘氏の著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』でも、秀吉の無断離脱については、畿内や播磨方面の逼迫した情勢が影響した可能性を指摘されています。
秀吉の単なる「わがままな撤退」ではなく、織田政権が抱えていた複数の戦線維持のためだったのかもしれません。
松永の謀反は包囲網と連動していた?
手取川の戦いとほぼ同時期、畿内では松永久秀も謀反を起こしました。
久秀といえば、信長に降った後も油断ならない存在として知られる人物であり、このときは大和の信貴山城に籠っています。

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons
信長にしてみれば、北陸の上杉謙信、大坂の本願寺、瀬戸内海の毛利氏に続いての苦難です。
久秀は他の反織田勢力とどこまで連動していたのか?
この点については慎重に見る必要があるでしょう。
事前に共有していたとは言い切れないけれど、上杉謙信の進軍や本願寺の動きを久秀が好機と見た可能性も否定できない。
結果的に反信長勢力と連動する形になったのかもしれません。
一つ一つは個別の戦いでも、同時に起きれば信長にとっては包囲網になる――第三次信長包囲網とはそういう状況であり、多方面から圧迫を受けた信長もすべての戦場へ向かうわけにはいきません。
そこで重要になるのが、方面軍体制です。
北陸には柴田勝家。
中国方面には羽柴秀吉。
丹波や畿内には明智光秀。
有力家臣に大きな権限を与え、各自の判断に委ねながら戦線を維持させ、松永久秀の鎮圧には織田家を継がせた織田信忠に向かわせました。

織田信忠/wikimedia commons
なぜ第三次信長包囲網は崩れたのか
今度ばかりは、織田信長の軍勢も崩壊させられてしまうのではないか――そんな第三次信長包囲網が、途中で解かれてしまったのはなぜ?
最大の理由は上杉謙信の急死です。
天正六年(1578年)3月、急病で謙信が急逝すると、上杉軍の西進は止まるだけでなく、上杉景勝と上杉景虎による後継者争い「御館の乱」が始まりました。
越後では、上杉勢が泥沼の内紛に陥り、織田勢へ圧迫どころの話ではありません。
本願寺と毛利氏も「第二次木津川口の戦い」で織田軍に敗れ、いよいよ本願寺は追い詰められていきます。
松永久秀の謀反も、信忠が「信貴山城の戦い」に勝利して鎮圧。
かくして第三次信長包囲網は、各勢力の大きな連動が発動する前に一つずつ消され、織田勢は危機を脱することができたのです。
信長は、果たして運がよかっただけなのか?
第二次信長包囲網での武田信玄は西上作戦の途中で病没し、上杉謙信も手取川の戦い翌年に急死。
信長を脅かした二人の英雄は決定的な局面を迎える前に世を去り、この点、信長に大きな幸運があったことは間違いありません。

信長甲冑イメージ/絵・富永商太
しかし、運だけで片づけるのもどうか。
浅井・朝倉を滅ぼし、長篠で武田を破り、越前一向一揆を制圧し、本願寺への包囲を続け、毛利水軍に敗れても水軍強化で逆転を果たす。
途中で辛酸を舐めながらも信長は次の手を打ち、自ら局面を打開しました。
第三次信長包囲網に勝てたのは偶然ではない――信長が多方面の攻撃に備えて家臣団を使い分け、軍事・政治・流通の仕組みを整えた結果ではないでしょうか。
第三次信長包囲網とは何だったのか
最後に、おさらいしておきましょう。
大坂では石山本願寺。
海上と西国は毛利氏。
北陸の上杉謙信。
畿内では松永久秀。
政治的には足利義昭。
こうした各勢力が織田勢と敵対したのが第三次信長包囲網ですが、彼らも完璧に連動したわけじゃなく、それぞれの事情で戦い、結果として信長を圧迫しました。
実際、織田軍は危険な状況に陥りました。
もしも上杉謙信があと数年生きることができ、毛利氏や本願寺との連携を深めていれば、さすがの織田軍も身動き取れずに敗れていたかもしれません。
しかし現実には、謙信の死によって北陸の脅威は後退。
久秀の謀反も鎮圧され、本願寺も次第に追い詰められていきます。
第三次信長包囲網とは、反信長勢力が「あと一歩」のところで噛み合わなかった、未完の包囲網と言えるでしょう。
なお、上杉謙信と柴田勝家が対峙した手取川の戦いについては、別記事「手取川の戦いで織田軍は本当に惨敗したのか?」に詳細がございますのでよろしければ併せてご覧ください。
参考文献
- 池上裕子『織田信長 人物叢書』(2012年12月 吉川弘文館)
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社)
- 渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』(2016年6月 吉川弘文館)
- 岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣出版)
- 谷口克広『信長の政略 信長は中世をどこまで破壊したか』(2013年6月 学研パブリッシング)
- 柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田編』(2023年10月 戎光祥出版)
- 日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(2020年10月 朝日新聞出版)
- 藤本正行『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』(2003年1月 講談社)
【TOP画像】上杉謙信と織田信長の肖像画/wikimedia commons
