豊臣秀吉はなぜ柴田勝家と仲違いをして北陸の戦線を離れてしまったのか。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目される「手取川の戦い」は天正五年(1577年)9月に勃発。
柴田勝家率いる織田家の北陸方面軍は、戦線離脱した秀吉軍を欠いたまま上杉謙信と対峙し、手取川周辺で敗れたとされています。
※松任城のすぐ南にある手取川が主戦場となる
しかし、この戦いには大きな問題があります。
戦国屈指のビッグネームが衝突したというのに、合戦の詳しい経過が意外なほど見えにくいのです。
本当に織田軍は壊滅的な大敗を喫したのか?
実際、手取川の敗北は織田軍にどれほどの打撃を与えたのか?
当時の状況を振り返ってみましょう。
信長軍が北陸へ進んだ理由
天正五年(1577年)当時、織田信長は勢力を大きく広げていました。
それまでの織田家は、浅井長政・朝倉義景・本願寺らに始まり、続いて武田信玄や足利義昭まで敵対する、いわゆる「信長包囲網」に苦しめられていたところ。
しかし、元亀四年(1573年)に信玄が病没し、朝倉義景と浅井長政を滅ぼすと、天正三年(1575年)には「長篠の戦い」で武田勝頼を破り、信長の勢力は一気に拡大局面へ入りました。
そこで北陸方面を任されたのが柴田勝家です。

柴田勝家/wikipediaより引用
勝家は信長家臣団の中でも古参の重臣であり、武勇に優れた人物として知られています。
加賀では、長く一向一揆勢力が強い影響力を持っていて、信長はそこへ織田軍を進めさせ、北陸攻略の足場を固めようとしました。
つまり、そこで起きた手取川の戦いは「謙信と勝家の一戦」というより、織田家が北陸をどこまで支配できるかを巡る戦いでもありました。
上杉謙信はなぜ能登へ向かったのか
一方の上杉謙信は、越後を本拠とする戦国大名。
謙信といえば武田信玄との川中島の戦いが有名ですが、晩年には北陸方面にも関心を向けていました。
その理由の一つが、能登の七尾城です。
七尾城は能登畠山氏の本拠で、北陸でも有数の堅城として知られ、ここを押さえれば能登・加賀方面への影響力を強めることができる。
逆に織田方から見れば、七尾城が上杉方に落ちれば、北陸戦線の前提が崩れてしまう。
そんな状況だけに、七尾城の中でも内紛がありました。
親織田派と親上杉派が対立しており、織田軍の救援を待つ者もいれば謙信に通じる者もいて、戦いは単純に「織田軍vs上杉軍」とも言えない状況。
能登の国衆、七尾城内の対立、加賀一向一揆の余波――そこに信長と謙信の勢力争いが絡んでいたのですから両軍ともに重要な局面でした。
七尾城の陥落で勝家軍は目的を失った
そんな状況の中で、七尾城を救援するために北陸へ進軍した織田勢。
柴田勝家を中心に、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政らが動員され、当初は羽柴秀吉も加わっていました。
信長自身も後から出陣する予定で、織田方としてもかなり大規模な軍事遠征だったと見てよいでしょう。
しかし、織田軍にとって最悪の展開を迎えます。
救援すべき七尾城が、柴田勝家軍の到着前に落とされてしまったのです。

七尾城跡
敵地深くまで進んだ先で、救援すべき七尾城はすでに陥落し、本来の目的を失ってしまった勝家。
相手は、戦国屈指の名将・上杉謙信です。
この時点で、勝家軍が無理に決戦を挑む必要は薄く、むしろ撤退こそが自然な判断だったと言えます。
問題は、その撤退をどのタイミングで、どう実施するかでした。
秀吉はなぜ勝手に離脱したのか
手取川の戦いで多くの人が気になるのが、羽柴秀吉の離脱です。
勝家と秀吉が軍議で対立し、秀吉が勝手に陣を離れた――そんな話が伝わっていて、これだけ聞くと秀吉がとんでもない軍令違反をしたように見えます。
実際、勝家や信長から見れば大問題だったでしょう。
ただし、注意したいことがあります。
秀吉と勝家は、本能寺の変後に「賤ヶ岳の戦い」で激突。
ゆえに後世の私たちは「二人は昔から対立していたのか」と考えたくなり、場合によっては秀吉の離脱を「勝家を陥れる陰謀」と見る向きすらあります。

豊臣秀吉/wikimedia commons
しかし、天正五年(1577年)の段階で、秀吉が信長や勝家に背くつもりだった様子は皆無です。
注目すべきは、織田軍の指揮系統でしょう。
この頃の信長軍は、各方面に有力家臣を派遣する形へと変化していました。
北陸方面は柴田勝家、中国方面は羽柴秀吉、畿内や丹波方面では明智光秀といったように、それぞれ大きな方面軍が各地での攻略を任される時代へ向かっていたのです。
となると、単に目の前の勝敗だけでなく、各方面の軍事行動や政治状況とあわせて見なければならない。
つまり秀吉の離脱も、単なるわがままとも言い切れない。
勝家が総大将である北陸方面軍で、いったい秀吉の権限はどこまで明確だったのか――織田軍が急激に巨大化する過程で、組織としての約束事が徹底していなかった可能性も浮かんできます。
いずれにせよ秀吉軍は単独で戦線を離脱。
そのことは『信長公記』にも記されており、信長は激怒しました。
手取川で織田軍は本当に惨敗したのか
一方、七尾城の陥落を知った柴田勝家も、その後、撤退へ向かったとされます。
その途中で問題となったのが手取川です。
現在の石川県白山市付近を流れるこの川は、当時、雨によって増水していたとも伝わり、退却中の大軍にとっては危険な障害物となっていました。
渡河の途中、あるいは渡河後に敵から攻撃されれば、隊列は乱れやすく崩れやすい。
そうした不利な局面で、天正五年(1577年)9月23日、柴田軍は上杉謙信の追撃を受けたとされます。

上杉謙信/wikimedia commons
これが一般に語られる手取川の戦いであり、いくら勝家が「鬼柴田」と恐れられる猛将でも、あまりに不利な状況でした。
織田軍は敗れ、多くの兵が討たれ、あるいは溺死したともされます。
しかし、断言しすぎるのも危険です。
なぜなら手取川の戦いは『北越太平記』『北越軍記』『織田軍記』などの軍記物に記述があるだけで、同時代の史料に詳細は記されていません。
真偽に疑いのある書状として、次のような趣旨の文言も伝わります。
上杉謙信「織田軍は案外弱い。これなら天下を取る(上洛する)のも簡単だ」
研究者の和田裕弘氏は著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』の中で「撤退中の柴田軍に一揆勢が襲いかかり、多少の損害が出た程度かもしれない」と指摘。
間違いないと言えるのは、晩年になってもなお上杉謙信が信長にとって危険な相手だったということでしょう。
信長政権はなぜ崩れなかったのか
手取川の戦いが、柴田軍の大敗だったかどうかは慎重に見る必要があります。
ただし、織田家にとって憂慮すべき事態であったことは確かです。
もしも上杉謙信がこのまま西へ進み、加賀・越前方面での揺さぶりを続けていたら、北方に強大な敵対エリアができ、織田政権は苦況に追い込まれてしまう。
畿内では本願寺、中国地方では毛利氏、そして東方では武田氏もまだ健在。万が一、謙信が上洛でも目指したらさらに強力な信長包囲網により潰されていた危険性もあったかもしれません。
しかし、現実の歴史はそうなりません。
翌天正六年(1578年)3月、上杉謙信は急逝してしまうのです。
その結果、上杉家では後継者争い「御館の乱」が起き、上杉景勝一派と上杉景虎一派による派閥争いで、越後は真っ二つに割れる内紛へと陥りました。
信長にとって、武田信玄に続く大きな脅威となり得た上杉軍の西進は、ここで止まることになりました。
手取川の戦いが面白いのはここのところ。
七尾城が落ち、撤退せざるを得ない状況であったことから、織田軍にとっては敗戦に間違いありません。
しかし、織田政権の躍進を止める決定打とは言えず、局地的には上杉の勝利でも、その後の謙信の急死と御館の乱によって、北陸情勢は織田家に有利な方向へ傾いていきました。

織田信長/wikimedia commons
果たして謙信が、勝家ではなく信長と直接対決していたら、どんな合戦になったのか?
そんなこともつい考えたくなりますが、謙信にせよ信玄にせよ、結局、信長本隊との本格的な決戦に至る前に亡くなってしまいます。
彼らにはあと10年の若さが必要でした。
そうした状況を信長の幸運と見るのか。それとも、謙信と信玄の年齢も見越した上で対応していた信長の戦略勝ちなのか。
手取川の戦いが起きていたその頃、畿内では松永久秀の謀反が起きており、織田家は新たな戦いに追われております。
なお、戦線離脱した秀吉のその後については別記事「秀吉が柴田勝家の北陸戦線から勝手に帰還!信長に激怒された後どうなった?」をご覧ください。
参考文献
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社)
- 渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』(2016年 吉川弘文館)
- 池上裕子『織田信長 人物叢書』(2012年12月 吉川弘文館)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年10月 吉川弘文館)
- 峰岸純夫・片桐昭彦編『戦国武将合戦事典』(2005年3月 吉川弘文館)
【TOP画像】上杉謙信と柴田勝家の肖像画
