『信長公記』では複数の話が端的に語られていますが、著名な敵武将を倒したり、あるいは味方の有力家臣が亡くなったり、結構、重要なことがポンポン飛んできます。
早速、見てまいりましょう!
本稿は織田信長の足跡を記した『信長公記』を考察しており、今回はその182話目(巻十二・第七節)となります。
前話は以下の通り。
安土宗論で信長に斬首刑とされた者も!法華宗vs浄土宗の結末~信長公記181話
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波多野三兄弟を処刑
この頃、前年(175話)から明智光秀が取り囲んでいた八上城(丹波篠山市)に餓死者が出始めていました。
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生き残った者は草や木の葉、牛馬まで食べて戦い、明智軍は容赦なく切り捨てたといいます。
光秀が「冷酷な現実主義者だから織田政権で出世できた」と見る向きもありますが、こうした経緯からのことでしょう。
温情を持って丹波攻略を進めた印象のある大河ドラマ『麒麟がくる』とは、ちょっとイメージが異なりますね。
明智軍は、並行して敵の調略を進めた結果、城主の波多野三兄弟を捕らえることに成功しました。
・波多野秀治
・波多野秀尚
・波多野秀香
三兄弟とは彼らのことで、特に波多野秀治は丹波を代表する戦国武将として赤井直正と同様に知られてますね。
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6月4日、光秀が波多野三兄弟を安土へ護送すると、信長は直ちに、彼らを安土・慈恩寺の町外れに連れて行き、磔にしました。
光秀はそのまま丹後に進撃していきましたが、そちらの経過は次回に譲って先へ進めます。
鷹を献上され、陣中見舞いで鷹を贈る
6月13日には、光秀が向かった先で丹後の松田摂津守が、巣立ち前の隼(はやぶさ)を2羽、信長に献上してきました。
摂津守の実名は不明ですが、この松田氏は桓武平氏の流れをくみ、室町幕府の奉行衆の一員だった家だと考えられています。
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『信長公記』では隼の子が献上されたことしか書かれておらず、松田氏に関する記録も不明瞭なところが多いため、これ以上のことははっきりしていません。
6月18日には、織田信忠が安土へご機嫌伺いにやってきたようです。
おそらく、天主閣が完成してから初めての訪問だったでしょうし、信長への挨拶や報告・相談のついでに、見物もしたかもしれませんね。
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プレゼントは、権力者が一方的に受け取るだけではありません。
その辺の気遣いが割と丁寧だった信長は6月20日、伊丹在陣中の滝川一益・蜂屋頼隆・武藤舜秀・丹羽長秀・福富秀勝らへの陣中見舞いとして、
・鷂(はいたか)3羽
・小男鷹(このり)2羽
を贈っています。
どちらも鷹狩に用いられるタカ科の鳥で、オオタカよりも小柄な種類。
使者は青山与三でした。
信長の養育係・信昌の通称と同じですが、年齢的に考えて息子の吉次か、あるいは別人でしょう。
そして6月22日、信長や秀吉のみならず、戦国ファンにとっても非常に悲しい出来事が起きます。
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