今回は天正七年(1579年)6~7月の話題が中心。
『信長公記』では複数の話が端的に語られていますが、著名な敵武将を倒したり、あるいは味方の有力家臣が亡くなったり、結構、重要なことがポンポン飛んできます。
早速、見てまいりましょう!
波多野三兄弟を処刑
この頃、前年(175話)から明智光秀が取り囲んでいた八上城(丹波篠山市)に餓死者が出始めていました。
生き残った者は草や木の葉、牛馬まで食べて戦い、明智軍は容赦なく切り捨てたといいます。
光秀が「冷酷な現実主義者だから織田政権で出世できた」と見る向きもありますが、こうした経緯からのことでしょう。
温情を持って丹波攻略を進めた印象のある大河ドラマ『麒麟がくる』とは、ちょっとイメージが異なりますね。
明智軍は、並行して敵の調略を進めた結果、城主の波多野三兄弟を捕らえることに成功しました。
・波多野秀治
・波多野秀尚
・波多野秀香
三兄弟とは彼らのことで、特に波多野秀治は丹波を代表する戦国武将として赤井直正と同様に知られてますね。
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6月4日、光秀が波多野三兄弟を安土へ護送すると、信長は直ちに、彼らを安土・慈恩寺の町外れに連れて行き、磔にしました。
光秀はそのまま丹後に進撃していきましたが、そちらの経過は次回に譲って先へ進めます。
鷹を献上され、陣中見舞いで鷹を贈る
6月13日には、光秀が向かった先で丹後の松田摂津守が、巣立ち前の隼(はやぶさ)を2羽、信長に献上してきました。
摂津守の実名は不明ですが、この松田氏は桓武平氏の流れをくみ、室町幕府の奉行衆の一員だった家だと考えられています。
『信長公記』では隼の子が献上されたことしか書かれておらず、松田氏に関する記録も不明瞭なところが多いため、これ以上のことははっきりしていません。
6月18日には、織田信忠が安土へご機嫌伺いにやってきたようです。
おそらく、天主閣が完成してから初めての訪問だったでしょうし、信長への挨拶や報告・相談のついでに、見物もしたかもしれませんね。
プレゼントは、権力者が一方的に受け取るだけではありません。
その辺の気遣いが割と丁寧だった信長は6月20日、伊丹在陣中の滝川一益・蜂屋頼隆・武藤舜秀・丹羽長秀・福富秀勝らへの陣中見舞いとして、
・鷂(はいたか)3羽
・小男鷹(このり)2羽
を贈っています。
どちらも鷹狩に用いられるタカ科の鳥で、オオタカよりも小柄な種類。
使者は青山与三でした。
信長の養育係・信昌の通称と同じですが、年齢的に考えて息子の吉次か、あるいは別人でしょう。
そして6月22日、信長や秀吉のみならず、戦国ファンにとっても非常に悲しい出来事が起きます。
半兵衛の死
天正七年(1579年)6月22日、播磨の陣中で竹中重治(竹中半兵衛)が病死したという知らせが届きました。
亡くなったのは13日だったようです。
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これを受け、信長は重治の後任として、御馬廻衆の中から半兵衛の弟・竹中重隆(重矩)を派遣しています。
重隆は、かの有名な【稲葉山城乗っ取り事件】の際にも登場した重要人物人です。
というのも同事件は、半兵衛が「弟を見舞う」という名目で城に入り、そのまま占拠したというエピソードですが、その弟とは竹中重隆だったのです。
当時の人々から「竹中兄弟なら稲葉山城乗っ取りのような計略も成し遂げたに違いない」と思われるような、頭脳明晰な二人だったのでしょう。
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ただし、巷でよく言われるような「軍師」という役職は無く、半兵衛についてはフィクションなどでの水増しもある気が……。
名刀・鉋切とは
6月24日、信長は天正四年に丹羽長秀に下賜していた【珠光茶碗】を召し上げ、代わりに長船長光の【鉋切(かんなぎり)】を与えました。
日本刀は「◯◯を斬ったから◯◯切」という銘の付け方をすることがよくありますが、これもその一つ。
そのエピソードとは……。
昔、六角氏の家臣だった某武士が、大工と伊吹山の近くを歩いていた所、大工が何かに憑かれて武士に襲いかかってきた。
武士が退治しようと斬りかかる。
大工は鉋で刀を受けようとする。
と、切れ味鋭いこの刀は鉋ごと大工を真っ二つにした。
そんな経緯から「鉋切」と呼ぶようになったようです。
伊吹山といえば、ヤマトタケルが伊吹山の神と戦って敗れ、下山の後に亡くなったという伝説がある場所ですね。
神や物の怪の存在を信じるかどうかは人それぞれですが、なんとなく「そんなことがあってもおかしくないな」と思ってしまいますね。
長篠勝利の功労者・信昌も
半兵衛の死から間もない7月3日。今度は伊丹在陣中の武藤舜秀が病死しました。
7月3日とは、訃報が安土に届いた日ではなく、亡くなった日のようです。
つい半月前に信長が鳥(はいたか・このり)を送った相手の一人ですが、その頃はまだ病気ではなかったのか、陣中見舞いと病気見舞いを兼ねていたのか、信長に病状を知らせていなかったか……その辺の詳細は不明です。
武藤舜秀は、知名度こそ高くはないながら、信長に厚く信頼されており、『甫庵信長記』の著者・小瀬甫庵も「信長が高く評価したうちの一人」と記しています。
織田政権にとっても痛手だったことでしょう。
7月6日と7日には、安土山で相撲が行われています。
詳しい記述がないので、さほど大きな会ではなかったようですね。
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再び贈り物の話になりますが、相手は織田家中だけとは限りません。
7月16日には徳川家康が馬を献上してきました。
使者は徳川四天王の一人として知られる酒井忠次で、このとき家康とは別に馬を献上したのが奥平信昌。長篠の戦いで織田徳川連合軍が武田軍に勝利できた功労者の一人ですね。
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長篠城は、馬産地で有名な信濃に近いので、優秀な馬を数多く保有していた可能性もありそうです。
最後に少々物騒な話を一つ。
7月19日、信長は嫡男・信忠に命じ、岐阜で家臣の井副将元を成敗させています。
執行は織田与八郎(柘植与一)・前田玄以・赤座永兼の三名。
将元は妻子をいつまでも安土に移さず、本人もぶらついていた他、文書偽造などもしていたための粛清でした。
職務怠慢だけならともかく、犯罪までやっていては擁護はできませんね。
当時でしたら、成敗は妥当といったところでしょう。
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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)









