京都の隣という絶好の場所でありながら、ビッグネームが不在なだけに戦国ファンから放置されがちな丹波。
しかしこのエリアにも、明智光秀を散々手こずらせていた戦国武将がいたのをご存知でしょうか?
波多野秀治です。
当初は織田家に味方しながら、途中で真正面から敵対。
光秀を相当苦しめた、知られざる名将と言っていいかもしれません。
では一体どんな人物だったのか?

波多野秀治/wikimedia commons
天正7年(1579年)6月8日に亡くなった波多野秀治の事績を追ってみましょう。
※6月2日死亡説もあり
丹波の有力者・波多野秀治
波多野秀治は、丹波国(現在の兵庫県付近)の有力武家である波多野一族に生まれました。
父は波多野晴道で、伯父に波多野元秀。
秀治は、波多野宗家の伯父・元秀の養子になると、波多野家当主の跡を継ぎました。
もともと波多野氏は、丹波国でかなりの実力を持つ一族です。
しかし、秀治が家督を継承したと思われる頃には、三好長慶や松永久秀の弟である松永長頼に敗れ、没落していた頃。

三好長慶/wikipediaより引用
それでも都に近く、朝廷や室町幕府の所領が多かったことから、政治的な影響力も有していたのでしょう。
永禄3年(1560年)に正親町天皇の即位式が催された際には、秀治が交渉人となって毛利元就を説得し、即位式開催にともなう費用を捻出させています。
その際は、秀治本人も上京し、京都の守備を担当しました。
それから6年後の永禄9年(1566年)には、松永長頼の手に落ちていた居城・八上城を奪い返し、ここを再び本拠と定めます。
以下の地図をご覧ください。
※黄色=明智光秀の坂本城
※赤色(右)=波多野氏の八上城
※赤色(左)=赤井氏の黒井城
京都から直線距離で30kmほどの位置にあり、畿内の支配者にとっては軽視できない拠点だとご理解できるでしょう。
他にも同族の波多野宗長に支城の氷上城を守らせるなど。
丹波国多紀郡(現在の兵庫県丹波篠山市・たんばささやまし)一帯における支配者としての地位を確立しました。
この時期の丹波国は、赤井直正を中心とする赤井氏も、波多野氏と同じく新興勢力の有力者として黒井城に君臨しておりましたが、そこへ彼らの支配体制を脅かす者が現れます。
織田信長です。
赤井氏と共にいったんは信長へ服属
永禄11年(1568年)。
尾張の織田信長は、隣国・美濃を制すると、足利義昭を擁して京都の地へ入りました。

状況時は良好な関係だった足利義昭と織田信長/wikipediaより引用
信長に服属するか?
それとも徹底抗戦か!
赤井氏や波多野氏など、京都周辺で独立勢力を保っていた大名家は厳しい二択を迫られます。
彼らはいったん信長への忠誠を誓い、秀治は服属の証として太刀や馬を贈呈すると、信長からは感謝を示す書状を受け取っています。
他にも、小畠永明(こばたけながあき)や川勝継氏(かわかつつぐうじ)、あるいは荒木藤内(あらきとうない)といった在地の国人衆が、織田家になびいたことが書状からわかります。
小畠は大河ドラマ『麒麟がくる』でも、明智光秀が最初に面会できるよう近衛前久と話し合っていましたね。
丹波は、武田信玄や今川義元といった、他国のように強力な大名が不在の土地でした。
こうして点在する国人衆らと主従関係を築いた信長ですが、京都では、その関係性を大きく揺るがす事態に発展していきます。
元亀4年(1573年)に決定的になった信長と義昭の対立です。
支配者として君臨したい両者の思惑がぶつかり、義昭は自身の味方になりうる有力勢力に「信長包囲網」の形成を触れて回りました。
そこで義昭の目にとまったのが赤井直正です。
赤井討伐に駆り出されたのは光秀
義昭から幕府再興の助力を求められた赤井直正。
それは【京都の義昭を救うため直正が乗り込んでくる】という風説が流れるほどでした。

赤井直正イメージ(絵・中川英明)
結局、京都襲撃こそ実現しませんが、天正3年(1575年)、赤井氏は明確に「反信長」路線を表明し、織田家の支配下から離反します。
信長は畿内の平定事業や一向一揆衆の討伐に追われており、すぐに丹波へ兵を差し向けることはできませんでしたが、同年の秋には諸勢力との戦いを一段落させ、赤井氏の討伐に乗り出しました。
と言っても当人が直接出向くわけではありません。
明智光秀を派遣したのです。

明智光秀/wikipediaより引用
波多野氏にとって、同じ丹波の有力者・赤井氏が強大な織田家に攻められる――というのは、とても他人事とは言えない荒波でした。
しかし、波多野秀治は、赤井氏に呼応して信長を裏切るということはせず、あくまで織田家従属の姿勢を変えません。
彼らに、反信長の誘いはなかったのか。
あるいはすでに赤井氏と内応を約束していたのか。
それとも、この時点では日和見を決め込んだだけなのか。
後の経過を踏まえると、なぜこのとき信長に対して反旗を翻さなかったのか不明ですが、ともかく波多野氏は静観を決め込みました。
突如として赤井氏側に寝返った秀治
赤井氏討伐の命を受けて丹波に乗り込んできた明智光秀。
まずは宇津氏や内藤氏といった丹波の小勢力を撃破し、次にいよいよ赤井氏の領内へと侵攻していきます。
猛将として知られ、赤井氏をとりまとめていた【悪右衛門尉】こと赤井直正は、この一報を受けて出陣先から本拠である黒井城へと戻り、防衛体制を敷きました。

黒井城(隅櫓の石垣)/wikipediaより引用
これを追って光秀も黒井城を包囲します。
戦いは、持久戦に持ち込まれるかと思われましたが、猛将・赤井直正を擁しても赤井氏の劣勢は明らかでした。
但馬の八木豊信という武将が、毛利家の吉川元春に対し
「丹波国衆は、もうほとんど光秀の一味だよ」
と書き送っているほどです。
周囲から完全に孤立してしまった赤井氏の命運は風前の灯火と化しており、光秀本人も先行きをかなり楽観視していたことでしょう。
しかし!
ここで織田家にとっては思いもよらぬ展開を迎えます。
これまで一貫して光秀への服属を表明していた波多野秀治が、突如として織田家を裏切り、明智陣営を急襲したのです。
不意を突かれた光秀は敗れ、這々の体での撤退を余儀なくされました。
この驚くべき裏切りは、光秀にとって予想外だっただけではなく、信長にとってもまた手痛い出来事であり、丹波平定の戦略を変更せざるを得ませんでした。
短期戦による平定を諦めた信長。
光秀を丹波から引き揚げさせ、他エリアの戦に向かわせました。

織田信長/wikipediaより引用
なぜ秀治は信長や光秀を裏切ったのか
波多野秀治の裏切りについて、明確な理由を示す史料は残されておりません。
動機や経緯については今も謎。
外から戦の展開を見ていれば、赤井氏が極めて不利な立場に追い込まれており、勝敗だけを考えるのであれば、光秀を裏切るのは相当リスキーだったはずです。
それでも赤井氏に味方したのはなぜか。
そもそもの大前提として、直正や秀治が、信長にほとんど忠誠心を感じていなかったことが原因として指摘できます。
彼らは上洛する信長に形式上従ってはいましたが、その対象は「足利将軍を擁する織田信長」であり「戦国大名としての織田信長」ではなかった。その可能性は否めません。
裏切り行為は突然であっても、そもそも信長の味方をしなければならない心理的効果もなかったことが想像できます。
以上を踏まえたうえで、改めて裏切りに至る動機を考えてみますと……。
まず一つ目。
戦前から赤井氏と波多野氏は、内応の手はずを整えていた――。
両者はお互いに丹波国の有力者であり、距離的にも多少の交流があったとしても不思議ではありません。
先程も掲載した地図ですが、あらためて距離感を確認していただくと以下の通りです。
※黄色=明智光秀の坂本城
※赤色(右)=波多野氏の八上城
※赤色(左)=赤井氏の黒井城
この時期の波多野氏&赤井氏、両者の間に争いの形跡が確認できないことから、程よい関係性を保っていたことでしょう。
となれば、書状こそ残されていませんが、やはり内応に向けた働きかけがあったのではないでしょうか。
赤井氏は信長への敵対を決めてから調略に要する時間は十分にあり、武人として評価の高かった直正であれば何かしらの策を練ったと考えるほうが自然です。
もう一つの原因としては、光秀の戦ぶりを目の当たりにしたことで、信長への恐怖心を煽られた――そんな可能性を指摘したいところです。
【丹波の赤鬼】として恐れられていた赤井直正ほどの人物を追い込んでいく光秀の手法。

赤井直正イメージ(絵・中川英明)
あまりに鮮やかな進軍が目の前で行われ、織田家に対する警戒心が一気に増大したのです。
信長に従って日が浅かった秀治は、その苛烈さや家臣の見限り方を踏まえ、自分がいつ直正のように攻め滅ぼされるかもしれない、という恐怖を感じたとしても不思議ではありません。
この時期の秀治は、最新参といっても過言ではないほどの外様大名であり、主従の結びつきはほとんどありませんでした。
しかも、上記二つの仮説は、両立します。
内応の誘いを受けていた波多野秀治が、反信長という決断には至らないまでも、戦の展開を見て恐怖を感じた結果、裏切りに走った――という複合説です。
個人的にはこれを推したいところです。
もっとも、この可能性を裏付けるような史料は全く残されていないので、あくまで妄想の域を出ないのは残念ですが。
裏切りの代償はあまりにも重かった…
ひとまず明智軍を駆逐した波多野秀治。
光秀は他地域も攻略しつつ、丹波でも一歩ずつ確実に波多野氏の支城を落としていきました。
天正7年(1579年)になると、丹波に腰を据えて波多野・赤井討伐を本格化させ、両氏はたちまち危機的状況に陥ります。
その前年には、赤井氏の棟梁として名を馳せていた直正が病死。
彼らは積極的な軍事行動に出られなくなっていました。
光秀は、波多野氏攻略を優先します。
波多野氏の本拠である八上城は三里四方を明智軍に囲まれ、堀や柵による厳重な設備を建設された結果、獣一匹通れぬほどの包囲を受けるのでした。
やむを得ず籠城戦を強いられた秀治サイドの事態は深刻でした。
場内では餓死者が続出。
それでもあくまで徹底抗戦を主張した秀治は、ひそかに城の脱出を試みる者を切り捨て、降伏勧告にも応じない強固な姿勢を崩しません。
秀治も、ただ黙って光秀の猛攻を耐え忍んでいたわけではありません。
彼が丹波攻略を本格化させた天正7年(1579年)、秀治は兵庫屋惣兵衛という商人に対して徳政を免除しています。
食料を含む物資不足対策として商人との関係強化を図ったのでしょう。
しかし、戦国史研究家の谷口克広氏は「包囲の中で果して実効があったのであろうか」と、その効果を疑問視しております。
そんなご指摘の通り、波多野氏・八上城の苦境は全く改善できず、徳政免除のわずか三か月後には、前述の支城・氷上城が落城し、ここを守る一族の波多野宗長・宗貞親子は自害に追い込まれました。
最後まで玉砕の覚悟を固めていたが
それでもなお、頑強に抵抗をつづけた波多野秀治。
ついには諦めて降伏し、八上城も落城してしまいました。
なお、この際に光秀が自分の母を人質として和議を申し入れ、これに応じた波多野秀治・波多野秀尚兄弟が城から姿を現したところを捕らえたという記載が史料にありますが、これについては全くの虚説に過ぎません。
実態は、餓死者の続出に耐えかねた家臣らの裏切りによってもたらされた落城であり、秀治自身は最後まで玉砕の覚悟を固めていたといいます。
ともかく光秀によって捕らえられた秀治は、裏切りの見せしめとして市中引き回しの後、安土に送られ天正7年(1579年)6月8日、磔に処される――という酷い最期を迎えました。
同時に弟も処刑されたことにより、波多野氏は滅亡。
兄弟共に生年不明のため、享年もわかりません。
まもなく赤井氏も光秀によって攻め滅ぼされ、織田家による丹波平定はここに達成されます。
先ほどは裏切りの動機を検討してみましたが、正直、ここまで強固に徹底抗戦を主張したことには違和感を覚えます。
赤井氏への義理立てだとしても。
信長への恐怖だとしても。
彼がなぜ、これほどの決意をもって信長に対峙したのか、納得しきれないのです。

波多野秀治/wikipediaより引用
異常なほど情に厚いか、はたまた強情な性格をしていたか……。
いずれにせよその決断によって波多野氏が滅んでしまったという事実は残ってしまいました。
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【参考文献】
『国史大辞典』
谷口克広『織田信長家臣人名大辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち(中央公論新社)』(→amazon)
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係(中央公論新社)』(→amazon)
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)







