光秀や勝家、秀吉など、優秀な家臣団に各方面の攻略を命じていた織田信長。
自らは安土城天主を完成させるなど、いよいよ天下覇権に王手をかけようとしていた天正七年(1579年)5月、その安土で騒動【安土宗論】が起きました。
本稿は織田信長の足跡を記した『信長公記』を考察しており、今回はその181話目となります。
前話は以下の通り。
安土城天主はどんな建物だった?七階建ての各フロアを確認!信長公記180話
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浄土宗の僧侶に噛み付いた法華宗の信者
天正七年(1579年)5月のことです。
信長のお膝元・安土に関東の浄土宗僧侶・霊誉玉念(れいよぎょくねん)がやってきて、説法をしていました。
それを見た法華宗(日蓮宗)信徒の建部紹智(たけべしょうち)と大脇伝介が問答を仕掛けようとしましたが、彼らは僧侶ではなく俗人。
霊誉は落ち着いて
「あなた方のような年若い方には、仏法の奥深いところは理解できないでしょう。これぞと思う法華宗のお坊様をお連れください」
と軽くかわしました。
しかし、法華宗の二人は収まりがつかず、次第に話は
「浄土宗と法華宗の僧侶同士で宗論をしよう!」
というところまで発展。京都や安土周辺の僧俗が安土に集まります。
もちろん信長の耳にも届きました。
「当家の家臣にも法華宗の門徒は多いので、大げさなことはしないように」
信長も事を荒立てたくはなかったのでしょう。
家臣の菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らを遣わし、遠回しに宗論を諌めて、浄土宗側も信長の支持に従うと返事をしたのですが、自らの勝利を信じる法華宗側が承知しません。
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こうなったら無理に止めるより、白黒ハッキリつけさせたほうが収まりはよろし。
信長は「審判を送るので、経過を書類にしてきちんと報告せよ」と命じました。
審判は2名 浄厳院の仏殿でいざ宗論勝負
審判には、京都五山で博学と知られる南禅寺の長老・景秀鉄叟(けいしゅうてっそう)が招かれました。
さらには、ちょうど安土に来ていた因果居士(いんがこじ)も審判に加えられます。
『信長公記』には「因果居士を副えた」とあるので、景秀が主審で、因果が副審という感じでしょうか。
こうして、いよいよ宗論が行われることになったのが5月27日。
場所は安土の町外れにある、浄土宗の寺院・浄厳院(近江八幡市)の仏殿でした。
会場の警備に派遣されたのは、使者を務めた菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らと、そこに信長の甥・津田信澄も加えられています。
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宗教問題はとかくデリケートですから、信長も万全を期したのでしょう。
当日、法華宗側はきらびやかな法衣で着飾り、浄土宗側は墨染めの衣で質素な出で立ちをしていたそうです。
この時点で、それぞれの方針の差が見えますね。そして結果は……。
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