文政十二年(1829年)2月3日は、学者の西周(にし あまね)が誕生した日です。
「字面は難しくないのに読みにくい名前」
そんなランキングがあったら上位に入ること間違いないであろう人名ですよね。
「せいしゅう」と読んでしまうと、中国の王朝名になってしまいますのでご注意ください。
まあ、この人がテストに出るかというと、ビミョーなところではありますが……非常に優秀な御方なんですよ。
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森鴎外と親戚で旧居の前には鴎外の生家
西は、石見国津和野藩(現・島根県津和野町)の御典医の家に生まれました。
つまり、藩主の家に代々仕えてきたお医者さんの家柄だということです。
いかにも頭が良さそうな感じがしますが、「家の蔵にこもって勉強していた」といわれていますので、並々ならぬ努力家でもあったようです。
ちなみに、その蔵は今も保存されているとか。
しかも川向かいには親戚にあたる森鴎外の生家があるそうです。へぇへぇへぇ。
慶喜の側近となるも倒幕で……
西は漢学を学んだ後、12歳のときには津和野藩の藩校・養老館で蘭学も学び始めたといいます。
その優秀さは幕府にも聞こえており、33歳で幕命によりオランダへ留学することとなりました。
津田真道・榎本武揚なども一緒に行ったそうです。
ヨーロッパで、西洋の法律・哲学・経済学を学んだ西は、三年後に帰国。
その知識と頭脳を活かすべく、徳川慶喜の側近となりました……が、既に倒幕へ向かっていく世の中では、宝の持ち腐れになりかねない状況です。
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徳川家のほうでもそれを惜しんだようで、王政復古の後、徳川家によって開設された沼津兵学校の校長となりました。
新政府も同じように考えたようで、明治三年(1870年)に「西洋のこと色々知ってるんでしょ? うちで働いてほしいなー(チラッチラッ」と声をかけ、西もこれに応じて出仕します。
学者さんですから、戊辰戦争にはあまり関わっていなかったでしょうし、その辺が幸いしたのかもしれません。
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兵部省(現在でいえば防衛省)・文部省・宮内省などで働いていますので、文字通り引っ張りだこという感じだったと思われます。
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