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【西周】
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明六社を結成して雑誌を発行
洋学の知識を買われたことがキッカケとなった西の出仕。
しかし彼は、日本人らしい感覚も忘れてはいませんでした。
『軍人勅諭』や『軍人訓戒』などの起草にも携わっているのは、その現れでしょう。
また、かつての留学仲間などと共に【明六社】を結成し、雑誌を発行して西洋哲学の翻訳や紹介に努めています。
現在、日本語としてお馴染みの【哲学・科学用語】には、西が考えた訳語がたくさんあります。
例えば
「芸術」
「技術」
「知識」
といったごく普通に使われている単語から、
「演繹」
「帰納」
「命題」
などの哲学専門用語まで。
あまりに当たり前すぎる言葉のため、一瞬、その凄さを見過ごしそうになりますが、実は夏目漱石と並んで明治以降の日本語に大きな影響を与えた人ではないでしょうか。
他に獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長なども務め、明治十七年(1873年)に右半身の麻痺を発症、健康上の理由で公職を退いています。
こんだけ働いてたら、そりゃあ体を壊しても不思議じゃないですよね。
それでいて即座に命に関わることがない病気……というのもパッと思いつきませんが、脳か神経系の病気でしょうか。
病床でも西洋と東洋を体系づけようと……
その後、西は、しばらく東京にいたと思われます。
明治二十五年(1892年)になっても体調が良くならず、神奈川県大磯の別邸で療養生活へ。
自由に外出できないほどの状態になりながら、その間も学問に打ち込み、西洋の心理学と東洋の宗教(儒教や仏教)などをまとめて、新しい心理学を体系づけようとしていたそうです。
「西洋に追いつけ追い越せ」の当時、どう思われていたんでしょうね。
本としてまとめていたものの、発刊する前に西の寿命が尽きてしまいましたので、他の人に話す機会もなかったかもしれませんが。
完成していれば、精神医学などの分野でも名を残したかもしれません。
享年68ですから、若すぎるという程ではないにしろ、その頭脳が惜しまれます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
西周_(啓蒙家)/wikipedia