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【安土宗論】
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今後、他宗を誹謗しないと誓約書を出せ
他の法華宗側の僧侶にも、日頃の態度を叱りつけ、次のように命じました。
「法華宗は口が達者だから、今回の負けもいずれ認めなくなるに違いない。負けたことを認めて浄土宗の弟子になるか、今後、他宗を誹謗しないと誓約書を出すか、どちらかにせよ」
法華宗側は誓約書を出す方を選び、その宛名は
・上様(信長)
・浄土宗様
にしました。
この中で「宗論に負けた」とハッキリ記されたため後世にまで伝えられ、世の人に知られることになったとか。
敗北を明記したことについて法華宗側が後悔していることまで知られ、さらに笑われたそうです。
騒動のタネを作ったもう一人の建部紹智は、なんと堺まで逃げました。
が、結局捕まって首を斬られています。
この件は【安土宗論】として広く知られています。
「信長が法華宗を弾圧するために浄土宗を勝たせた」とする解釈もありますが、そもそも事の発端は法華宗の信徒のイチャモンであり、信長は一度宗論を止めています。
また、最初に勝者の浄土宗側を褒め称えていること。
発端の二人や普伝以外の法華宗側は誓約書で済ませていることからしても、法華宗を弾圧したかったという単純なものではなかったでしょう。
信長が「真面目な聖職者は認めるが、神仏を軽んじ世を乱すような者には厳罰を科す」という考えを宗派関係なく”持っていたために、このような採決をしたものと思われます。
本能寺も法華宗だった
法華宗はその宗旨の中に
「法華宗こそが唯一無二の教えであり、他の宗派では救われない」
という考えがあるため、他宗派とのトラブルが多く、朝廷も頭を悩ませていました。
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信仰を持つのは結構ですが、それを理由に他者といさかいを起こすのはよろしくないですよね。
宗派そのものの存続は認めつつ、誰にでも宗論を挑むようなトラブルを起こさせないためには、一度「宗論で負けた」ということを自覚させる必要があります。
それに、信長が言っている通り、織田家にも法華宗の信徒は多かったのですから、弾圧したいのならまず家中の信徒について宗旨変えを迫っていたでしょう。
実は、あの本能寺も法華宗の寺院です。
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信長自身も形式的には法華宗で、京都では他に定宿としていた妙覚寺もそうでした。
京都には他宗の寺院が数多くあるので、法華宗には一定以上の好感を抱いていたのでしょう。
【安土宗論】の因縁から明智光秀に襲われた……なんてオカルトはありませんので、すみません忘れてください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)