織田信長が行った悪逆非道と言えば?
そう問われて真っ先に思い浮かべるのがアレ。っd
元亀二年(1571年)9月12日に強行された【比叡山焼き討ち】でしょう。
老若男女問わず延暦寺にいた数千人を殺したとされているこの事件。
同山へ攻め入ったのは事実ですが、最近の研究では「そこまで激しく殺していないのでは?」という指摘もあります。
延暦寺焼き討ち――果たしてその真相やいかに?
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比叡山延暦寺焼き討ちで殺されたのは生臭坊主?
そもそも、なぜ信長は延暦寺と敵対したのか?
それは比叡山延暦寺が軍事拠点だったから。
当時の延暦寺はいわば僧兵集団です。
決して無力なお坊さんだけが暮らしているところではなく、中には「ワシに逆らうやつには仏罰が下るぞよ!」なんてデカい顔をしている生臭坊主も……。
むろん徳の高い高僧もいましたが、それとは正反対に権力を振りかざし、本来は入れない女性を連れ込んだり、金貸しに手を染めて荒稼ぎしたり、やりたい放題でした。
さらには殺生厳禁のはずの仏教徒だというのに、浅井家や朝倉家の軍事行動に肩入れする始末です。
これでは仏様も「いやいやお前らにこそ罰当てたいわ」とツッコんでいたのではないでしょうか。
信長は信長で、敬虔な仏教徒でもなんでもなく、かといって神仏を否定などは一切せず普通に保護していたりしましたが、延暦寺のように軍事拠点化しており、京都の脅威ともなれば、「叩き潰すしかない!」と思ったのでしょう。
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寺に残った僧侶たちは信長をナメていた?
実際、この直前に行われていた【志賀の陣】という戦いでは、比叡山という拠点が浅井朝倉軍にとって重要な陣にもなっていました。
織田軍にしてみれば、攻める理由は十分にあったのです。
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しかし、さすがにいきなり放火してヒャッハーしたわけではありません。
武力を放棄して真っ当な寺になれ――と当たり前のことを何度か要求し、事前に降伏も呼びかけています。
これに対し比叡山側は「お金あげるのでどうか勘弁してください」といった使者を出してきたりして、埒が明きません。そもそも金で解決とか、僧侶として頭おかしいですよね。
実際、その時点で逃げ出した人も多かったのです。
逆に言えば、それでも比叡山に残った人たちは
「どうせ口だけで攻め込めないっしょw」
とか
「こんな楽しい生活捨てられんわい!」
といった調子で信長を舐めきっていて、当時の価値観から言えば殺されても仕方のない状況だったと言えます。
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燃えた木材も人骨も出土せず ナゼ、ホワイ?
かくして信長は、明智光秀を中心とした比叡山討伐軍を編成。
いざ比叡山延暦寺に攻め込むと、逆らう僧兵達だけでなく、オンナ子供も殺しに殺し、果ては火を放った――というのが、従来の比叡山延暦寺焼き討ち事件のあらましです。
しかし、最近の発掘調査で意外なことがわかりました。
焼き討ちをしていたとしたら当然出てくるはずの燃えた木材などがごくわずかにしか見つからないのです。
加えて、何千人も殺していたとしたらこれまた出てくるはずの人骨も出土しなかったといいます。
もし本当に「全山焼き討ち」とか「数千人もの殺害」を敢行していたら、そんなハズはない。
ブルドーザーによる埋め立て技術もない時代にどうやってそれらを片付けたのか。
この結果からすると、信長は延暦寺を攻めて僧兵と戦っただけで、巷で言われているような全山焼き討ちはしていないのでは……?とも考えられるのです。
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