大同5年(810年)9月12日は【薬子の変】が起きた日。
実はこの事件、【壬申の乱】や【平将門の乱】などと比べて流血沙汰の規模は小さいながら、奈良~平安時代にかけて非常に大きな転換点となっています。
藤原氏の権力が式家から北家に移動――という権力委譲のキッカケとなったのです。
『式家とか北家とか、何なの?』
というわけで、まずは藤原氏の系図をざっくり確認しておきましょう。
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不比等の息子たち藤原四家から始まる~
藤原氏は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、藤原姓をもらったことから始まります。
中大兄皇子が【乙巳の変(645年)】を起こすときの相棒で、ここから大化の改新が始まったわけですね。
そして鎌足の権力者が、その息子・藤原不比等(ふひと)になります。
既に天皇の信任を得ていた鎌足の息子ですから、さぞかし大権を持っていたに違いない……と思いきや、実はそうでもありません。
鎌足が亡くなったとき、不比等はまだ10代前半の少年で、高い位に就くことができなかったのです。
しかしそのおかげで大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子がドンパチやった【壬申の乱】に巻き込まれずに済みました。
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意外なことに、不比等は地道に努力して出世を重ね、多くの子供を授かりました。
そのうち、上から四人の息子たちが【藤原四兄弟】と呼ばれている人たちです。
・藤原武智麻呂(むちまろ)
・藤原房前(ふささき)
・藤原宇合(うまかい)
・藤原麻呂(まろ)
宇合は読み方が難しいですが、逆にインパクトがあって覚えやすいかもしれませんね。武智麻呂と麻呂がややこしくなりがちです。
子孫の繁栄を「末広がり」というように、これだけ兄弟がいると、一つところで暮らしていくわけにも生きません。
藤原四兄弟もそれぞれ自分の家を興しました。
それが以下の表です。
【藤原四家と代表的人物】 | ||
---|---|---|
創始者 | 四家 | 代表的人物 |
藤原武智麻呂 | 藤原南家 | 藤原仲麻呂(恵美押勝) |
藤原房前 | 藤原北家 | 藤原冬嗣・藤原良房 藤原時平・藤原道長 |
藤原宇合 | 藤原式家 | 藤原百川・藤原種継 藤原仲成・藤原薬子 |
藤原麻呂 | 藤原京家 | 藤原浜成 |
武智麻呂の子孫が【北家】、房前の子孫が【南家】、宇合の子孫が【式家】、麻呂の子孫が【京家】と呼ばれ、総称して【藤原四家】と表記。
このうち重要なのは北家と式家なので、余裕がない受験生の方はその二つだけ覚えるのもアリかもしれませんね。
紆余曲折を経て藤原式家が台頭す
さて、不比等の子ら藤原四兄弟は、ほぼ同時期に全員が天然痘で亡くなってしまいます。
このため朝廷は一時大混乱。
ようやく一段落したかと思ったら、式家の二代目・広嗣が大宰府に左遷されたことを不服として【藤原広嗣の乱】を起こしました。
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もちろんこれはスグに鎮圧されますが、式家は政治的に難しい立場に追い込まれます。
そこで踏ん張ったのが広嗣の弟である藤原良継と藤原百川でした。
彼らは自分の娘たちを親王だった頃の桓武天皇の妃にして、少しずつ勢力を強めるのです。
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父親らが世を去った後、彼女らは親王をもうけ、一時落ち込んでいた式家の立場を再び強固にしました。
そんな折に、平城上皇と嵯峨天皇の間で起きたのが【薬子の変】です。
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最近では「首謀者は薬子ではなく、平城上皇ではないか」とする見方も強まってきましたが、まだ「薬子の変」と表記するほうが多いですね。
桓武天皇の次に即位したのが息子の平城天皇。
この方はあまり体が丈夫ではなく、皇子たちも小さかったため、早いうちに弟の嵯峨天皇を皇太弟とし、後の混乱を防ごうとしました。
そして大同四年(809年)4月、平城天皇は病に倒れ、弟へ譲位を決めます。
平城天皇vs嵯峨天皇で「二所朝廷」
平城天皇譲位の決断に対し、藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は反対しました。
藤原薬子は、自らの娘を宮中に入れる際、彼女自身が平城天皇に気に入られてしまうという、かなり際どいキャリアの持ち主です。
それゆえ平城天皇が彼女のワガママを普段から聞き入れていた――なんて見方もありますが、このときの天皇の意思は固く、そのまま譲位を敢行。
新しい皇太子には平城天皇の三男・高岳親王が立ちました。
晴れて隠居の身になった平城上皇は、平安京を出て、かつての都である平城京へ移ります。
譲位も済ませて、ホッと一息つきたかったのかもしれません。
しかし、です。ここで一悶着起きます。
かつて平城上皇が設置した「観察使」という制度を、嵯峨天皇が改めようとしたのです。
平城上皇は怒り「二所朝廷」といわれるほどの対立構図ができてしまいました。
そして、そもそも譲位に反対だった薬子と仲成はこの対立を利用し、平城上皇を復位させて権勢を手に入れようとしました。
平城天皇を再び返り咲かせる――。
薬子と仲成がそれを狙っていたと考えられる理由は2つあります。
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