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【薬子の変】
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平城上皇を返り咲かせる一手は?
平城天皇を再び返り咲かせる――そう思えた理由。
一つは、当時「上皇は、天皇と同様に政治に関与できる」と考えられていたことで、もう一つは、薬子が就いていた尚侍(ないしのかみ・女官のトップ)という職の特権です。
実は尚侍には、統治機関である太政官への命令書を出す権利がありました。
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この二つをうまく利用すれば、嵯峨天皇を退位に追い込み、平城上皇を復位させることもできる。そう考えたのです。
そもそも太政官がよくわからん!という方は、以下の記事をご参照ください。
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当時の政治・官僚組織のトップに立つところで、国政が運営されていた中枢となります(永田町と霞が関みたいなもんですね)。
なお、TOPが太政大臣となりますが、本来は臨時的な扱いなので、普段は左大臣がトップです。
「平城京へ遷都くん!」『えっ、今さら???』
薬子と仲成がなぜ強気でいられたか。
それは嵯峨天皇が大同五年(810年)の年明けに病に倒れ、元日の朝賀が中止になってしまったことも一因だったようです。
すでに皇太子が立てられているのですから、いくら望んでも平城上皇の復位の見込みは薄いはずなんですけどね……。
あるいは復位を望むより、皇太子・高岳親王を傀儡にしたほうが、まだ現実味があるかもしれません。
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なぜ、その辺りに気づかなかったのか。もしくは手を回されてしまったのか。これだと計画というより、単なるワガマm……ゲフンゴフン。
しばらくすると嵯峨天皇の体調は回復、政務に戻りました。
そしてその後も、かつて平城上皇が定めた制度を廃止にしたり、新たな役職をもうけたりして、上皇にとっては面白くない状況が続きます。
平たくいうと「現役当主のやることなすことが気に入らないので、ご隠居が返り咲こうとしている」という構図なわけです。
正直、これは平城上皇からの難癖と申しましょうか。あるいは新しい時代についていけてないのか。
我慢ならなくなった平城上皇は、ついに一線を超えてしまいます。
「平城京へ遷都くん!」
かつての都、奈良・平城京への遷都を呼びかけたのです。
ここで考えておきたいのが、平城上皇と嵯峨天皇の父親が桓武天皇だということです。
桓武天皇は、暗殺事件や弟の呪い疑惑のため、平城京→長岡京→平安京と非常に苦労の多い遷都を行っています。
それをひっくり返そうというのですから、まぁ、親不孝でありましょう。
造宮使という名目で平城京へ送り込む
嵯峨天皇も朝廷の面々も、さすがに平城上皇の遷都宣言にはびっくり仰天でした。
そこで、急ぎ、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上(き の たうえ)らを造宮使という名目で平城京に送ります。
この冬嗣が、藤原北家の人であり、同家の隆盛の始まりともなった人です。
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配下を平城京へ送り込んだ嵯峨天皇は遷都を断固として拒否し、伊勢・近江・美濃の国府と関を封じて、藤原仲成と薬子の官職を剥奪しました。
さらには、平城上皇派と見られた文室綿麻呂(ふんや の わたまろ・蝦夷討伐における田村麻呂の戦友)を処罰します。
その上で、坂上田村麻呂を大納言、藤原冬嗣を式部大輔、紀田上を尾張守に任じるのでした。
嵯峨天皇のこうした動きに、平城上皇は激怒。
トンデモナイことを言い出します……。
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