一条天皇のもとへ入内を果たすも、なかなか子供に恵まれなかった藤原彰子。
大河ドラマ『光る君へ』では二人の仲を主人公まひろの物語が繋ぐ――そんな描写になっていましたが、史実に関して言えば彼らは二人の皇子に恵まれました。
先に生まれたのが後一条天皇であり、次が後朱雀天皇(敦良親王・あつながしんのう)です。
では、この二人にはどんな事績があるのか?
そう問われて、すぐに答えが出てくる方は少ないかもしれません。
道長の権勢に押されてどうしても印象が薄くなってしまいますが、彼らが何もしなかったわけではなく、こと後朱雀天皇に注目すると摂関家の利益に反するような政策を取ろうとしています。
一体なぜか?
寛徳2年(1045年)1月18日は後朱雀天皇が崩御された日。
本記事で、その生涯を振り返ってみましょう。

後朱雀天皇(東宮期の敦良親王)/wikipediaより引用
公任が詠んだ長寿の歌
敦良親王(後の後朱雀天皇)は寛弘六年(1009年)11月25日に生誕。
前述の通り、父は一条天皇で母は藤原彰子です。

一条天皇/wikipediaより引用
紫式部の日記『紫式部日記』では、後朱雀天皇の出産については比較的あっさりした描写ですが、お七夜などのお祝いは盛大に行われており、その宴の席で藤原公任がこんな歌を詠んでいます。
いとけなき 衣の袖は せばくとも 劫の石をば 撫でつくしてん
【意訳】今はお生まれになった皇子様の衣の袖は狭いとしても、ご成長の後は劫の石をなで尽くすほどになられるでしょう
「劫(こう)の石」とは、仏教でとてつもなく長い時間のたとえです。
百年に一度地上に降り立つ天人が、その羽衣で巨大な岩をなで尽くす時間を「一劫(いっこう)」というのだとか。
つまりは、敦良親王の長寿を予祝した歌ということになります。
9歳で皇太子に立てられ道長の末娘が入内
敦良親王は一条天皇にとっては第三皇子となります。
第一皇子が藤原定子の産んだ敦康親王。
第二皇子が藤原彰子との間にできた後一条天皇(敦成・あつひら)。
母が定子である敦康親王は即位できずに生涯を終えますが、後一条天皇と同じく彰子の子である敦良親王は道長の外戚となり、将来が明るいことは言うまでもありません。
実際、後一条天皇の皇太子だった敦明親王(三条天皇の皇子)は、自らその地位を退き、これによって寛仁元年(1017年)、敦良親王は数え9歳で皇太子に立てられました。
とはいえ兄の後一条天皇とは歳も近いため、しばらくは皇太子として過ごすことになります。
正確には皇太弟ですが、立場としては同じですね。

生まれたばかりの後一条天皇・『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用
その後、敦良親王は元服も済ませ、寛仁五年(1021年)には道長の末娘・藤原嬉子(きし/よしこ)が東宮妃として入内。
つまり道長は、孫のもとに娘を嫁がせたわけですね。
当時の姻戚関係からすると別に珍しくもない血の濃さながら、こうして冷静に書き記していると、なかなか怖いものがあるでしょう。
嬉子も、敦良親王から見れば叔母の立場ですが、生まれは寛弘四年(1007年)ですので、歳は2つしか変わりません。
むしろ、数え44歳で嬉子を出産した源倫子に驚嘆すべきでしょう。
彼女は90歳まで長生きした、あらゆる意味で健康な女性であり、道長は感謝してもしきれない程の恩恵に与っていたことになります。
嬉子は出産の2日後に急逝
祖父である道長の意向で、叔母と結ばれることになった敦良親王。
ゴリゴリの政略結婚ながら、敦良親王が詠んだ歌には妻・嬉子への愛情がうかがえます。
次の一首です。
ほのかにも しらせてしがな 春霞 かすみのうちに 思ふ心を
【意訳】春霞のうちに忍ばせているあなたへの思いを、ほんの少しでも知らせたいものだ
そして敦良親王と嬉子の間で、万寿二年(1025年)、親仁親王(のちの後冷泉天皇)が誕生しました。
後一条天皇が皇子に恵まれていなかったこともあり、道長にとってこれほど喜ばしいことはありません。
しかし、嬉子は産後の肥立ちが悪く、出産して2日後に急逝してしまいます。
娘を喪った源倫子や藤原道長が悲しんだのは言うまでもありません。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
敦良親王も悲嘆に暮れたことでしょう。
その後、敦良親王のもとには万寿四年(1027年)に三条天皇の皇女である禎子内親王(ていし)が入内しました。
禎子内親王の生母は道長の娘・藤原妍子のため、ふたりはいとこ同士でもあります。
そして敦良親王と禎子内親王の二人には、
・尊仁親王(後三条天皇)
・良子内親王
・娟子内親王
という子が授けられました。
今度は頼通の養女・嫄子が入内して
長元九年(1036年)4月、後一条天皇が崩御しました。
次に皇位を継いだのがこの敦良親王であり、後朱雀天皇となります。
即位後は、道長の跡を継いだ関白・藤原頼通が養女の藤原嫄子を入内させて中宮に立てました。
これにより禎子内親王は皇后へ。
道長によって一帝二后が定着していた時代とはいえ、禎子内親王としては気分が良くなかったでしょう。
長元十年(1037年)、禎子内親王は内裏を出ることを選びます。
後朱雀天皇は未練があったようで、こんな歌を贈っています。
あやめ草 かけし袂の ねを絶えて 更に恋ぢに まよふ頃かな
【意訳】袂にかけた菖蒲の根が切れるように、あなたと共寝することも絶えてしまって、私は恋路に迷っているよ
なかなか情熱的な歌ですね。
この後、禎子内親王が参内しなくなるのは、関白・頼通の娘に入内されて皇女といえど対抗しきれなかったからでしょう。
禎子内親王のほうでも後朱雀天皇を嫌いになったわけではなく、退去前にこんな歌を贈っていました。
今はただ 雲ゐの月を ながめつつ めぐりあふべき 程も知られず
【意訳】今はこの宮中で名月を眺めていますが、次はいつこの月に巡り会えるのか見当もつきません
この場合の「月」は後朱雀天皇を例えているとされます。
国の頂点であるはずの天皇と皇后であっても、このような切ない状況になっていたとは意外かもしれませんね。
一応、禎子内親王にも支援者はいました。
藤原頼通の異母弟である藤原能信(よしのぶ)です。
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父は道長、母が源明子である能信は、なかなか濃いキャラだったのですが、いずれにせよ内裏においては支援者がいるといないとでは生活力も発言力も大違い。
後に能信の存在は、後朱雀天皇と禎子内親王、そして後世にとって大きな影響を及ぼします。
荘園整理令で外戚の壁に阻まれる
他にも後朱雀天皇のもとへ、頼通の弟・藤原教通が娘の藤原生子(せいし/なりこ)を、同じく藤原頼宗が娘の藤原延子(えんし/のぶこ)を相次いで入内させました。
しかし、いずれも皇子を出産できず。
内親王は複数生まれているので、後朱雀天皇は比較的公平にお渡りしていたのでしょう。
後朱雀天皇は前述した藤原嫄子にも先立たれており、その翌年の七夕に、頼通へ哀悼の歌を贈っています。
こぞのけふ 別れし星も 逢ひぬめり などたぐいなき 我が身なるらん
【意訳】織姫と彦星は今宵再び逢ったようだが、私には連れ合いがなくて悲しいよ
禎子内親王への気持ちに嘘はなさそうですし、後朱雀天皇は情の濃い人だったのかもしれません。
摂関家の娘から皇子が生まれなかったこともあってか、後朱雀天皇は彼らと対立しかねない政策を選びました。
【荘園整理令】です。
当時は大貴族や大寺院に寄贈される荘園が多すぎて、朝廷の国庫が心もとない状態になっていました。
早い話、カネが足りない。
国家を運営していくには、この荘園にメスを入れて税を回収するしかなく、最も手っ取り早い方法は領主の分をいくらか削ることですね。
しかし、貴族や寺院にしてみりゃフザけんな!という話で当然反発を招き、長久元年(1040年)からこの方針を進めようとした後朱雀天皇はいきなり壁にぶち当たりました。
結局、この荘園整理令の進展は次次代・後三条天皇の時代まで待たねばなりません。

後三条天皇/wikipediaより引用
後朱雀天皇の崩御は、寛徳二年(1045年)のこと。
1月16日に後冷泉天皇へ譲位し、同月18日には出家してそのまま亡くなりました。
『光る君へ』では描かれませんでしたが、母の藤原彰子は二人の息子に先立たれたことになり、その悲しみは余人の想像を絶したことでしょう。
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【参考】
国史大辞典
服藤早苗『人物叢書 藤原彰子』(→amazon)
『新訳 後拾遺和歌集』(→amazon)





