天文法華の乱

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天文法華の乱1536年|戦国最大の宗教戦争「延暦寺vs法華宗」で京の都は大炎上

2025/07/28

天文五年(1536年)7月、天文法華の乱が起きました。

一見、中国史に出てきそうな字面ですが、大雑把に言うと「日本史で一二を争う宗教戦争」であります。

主に比叡山の僧兵と六角氏の軍勢が京都に入り、京都法華宗二十一本山(法華宗のお寺21箇所)を焼き討ちしたのです。

宗教戦争というとヨーロッパや中東の話になることが多いですが、日本でも宗教同士の争いがあったんですね。

それは一体どんなものだったのか、振り返ってみましょう。

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法華宗の勢い増し増し 延暦寺へ喧嘩を売る

このころ京都では法華宗が広く信じられるようになり、勢力を増しておりました。

面白くないのは、より古い宗派の人々です。

法華宗の人も「ウチの教えのほうが正しいんだから、古い宗派なんて意味なし!」という態度でしたので、対立は深まるばかり。

天文元年(1532年)には「浄土真宗の信者が一揆を起こすために京へやってくるぞ!」という噂により、法華宗側が山科本願寺などを焼くという暴挙を働くまでになっております。

このため、浄土真宗は石山本願寺へ本拠を移すことになりました。

後に石山本願寺を舞台として織田軍と約10年にわたって激突する『石山合戦図』/wikipediaより引用

また、法華宗は「ウチはここからここまで自治してるんで、お上に税金は払いません」というワケのわからん理屈で地子銭という税金を拒否するなど、外から見ればケンカを売っているも同然。

信者が増えているので、強気になられたのでしょう。

法華宗はどんどん態度をデカくして、どんどん自治状態へともっていこうとしています。

そして天文五年(1536年)2月には、延暦寺に対して宗教問答を仕掛けました。

「問答」とは単なる一問一答のことではなく、教義について違う宗派の人同士が議論するものです。現代風に言えば「ディベート」が近いでしょうか。

このときの問答は【松本問答】と呼ばれ、延暦寺の華王房(けおうぼう)が法華宗の信者・松本久吉に負けてしまいました。

比叡山としては面目丸つぶれです。

 


約5万~15万の僧兵・信徒・六角軍が焼き討ち

最澄以来、数百年の歴史とプライドを持つ延暦寺。

彼らは、自分たちの半分程度の歴史しかない法華宗に負けたことを認められませんでした。

ならば学問や議論で、再び勝負をすりゃいいのに物理的な手段に出るのです。

具体的には、東寺・神護寺・根来寺・粉河寺・高野山・三井寺・東大寺・興福寺・石山本願寺などに声をかけ、法華宗に対する武力蜂起を促しました。

もう仏法も面子も関係ありません。

しかも、これを重く見た六角定頼らが調停に入るのですが、その六角軍が延暦寺に取り込まれ、矛先を法華宗に向けるのだからカオスの極み。

かくして京都エリアに集まった軍勢は凄まじいものとなりました。

絵・小久ヒロ

◆比叡山約5万~15万

◆法華宗2~3万

記録によって兵数は異なりますので15万はさすがに盛りすぎかと思われますが、いずれにせよ数万単位の僧兵・信徒・六角軍が法華宗の寺に焼き討ちをかけたのです。

 

法華宗の二十一本山がすべて炎上

数で言えば圧倒的に不利な法華宗。

それでも当初は戦況が膠着しておりましたが、六角らの近江衆が市街へ入り、放火しまくるという暴挙に出ると次第に追い込まれていきます。

なんせ下京全エリアと上京の1/3が焼け、法華宗の二十一本山がすべて炎上となってしまうのです。

これにより発生した犠牲者は数千から1万人ほど。

一説には【応仁の乱】のときよりも燃えた面積が広かったとも言われ、実に【天明の大火】に匹敵したとか。ひでぇ。

※以下は天明の大火まとめ記事となります

天明の大火
市街の8割が燃えた空前の火災「天明の大火」は応仁の乱よりも被害甚大だった?

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また、数千の民衆が内裏に逃げ込み、圧死する者や喉の乾きで亡くなった人だけでも数百人単位に及んだと言います。

これだけやられてしまった法華宗としては、抵抗しようにもお寺が焼けてどうにもなりません。

彼らはやむなく京都から堺へ落ち延び、再起を待つことになりました。

 

信長の延暦寺攻めより、被害が大きかったんでは?

以降、約6年ほど、細川晴元は京都における法華宗の活動を禁じました。

細川晴元像/wikipediaより引用

しかし、勅許で禁が解かれると、焼き討ちに一枚噛んだ六角家が仲介するというワケワカメな形で延暦寺と法華宗の和議が成立。

騒ぎで焼かれたお寺のうち、半分以上(15本山)は再建されています。まったく、どういうことなんでしょうか……。

「一時的にめちゃくちゃムカついたから焼いただけなんでは?」とすら思ってしまいます。

そしてこの件から35年後、今度は延暦寺自身が織田信長に焼かれるという、まさに因果応報のような展開。

絵本太閤記に描かれた比叡山焼き討ちの様子/wikipediaより引用

戦国時代の宗教勢力というと、石山本願寺が目立ちますが、それ以前にも宗派同士による激しい戦いがあったんですね。

人心の荒廃……と一言で片付けるにはあまりに大きな被害でした。

なお、宗教勢力がなぜこれほどまでに権力を保持していたか?

以下の記事に詳細がございますので、よろしければ併せて御覧ください。

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【参考】
国史大辞典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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