今回は、織田信長の事績の中でもとりわけ有名な「比叡山焼き討ち(延暦寺焼き討ち)」です。
しかし意外にも『信長公記』での記述はそう多くありません。
この節の半分は、比叡山を攻めるに至った前年の経緯に関する再述が占めています。
まず、そこをざっくりマトメておきましょう。
1.前年(元亀元年=1570年)9月下旬、比叡山に逃げ込んだ浅井・朝倉軍を延暦寺が匿った
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2.信長は「織田家が横領していた延暦寺の土地を返すので、我々の邪魔をしないでもらいたい」と交渉
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3.しかし延暦寺は返事すらせず、浅井・朝倉軍に肩入れし続ける
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4.浅井・朝倉軍に対して「このまま対峙していても不毛だから、一戦して決着をつけよう」と申し出たが、満足な返答が得られない
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5.同年11月下旬になって、雪による本国との連絡不備や帰路を不安視した朝倉軍が将軍・足利義昭に泣きつく
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6.義昭が自ら信長のもとに出向いて和睦を斡旋したので、信長は不本意ながらこれを受け入れた
本願寺・浅井・朝倉に対して治まらぬ怒り
上記には記載しきれませんでしたが、浅井・朝倉軍は比叡山に立てこもる前、織田家の重臣・森可成と対戦(志賀の陣・宇佐山城の戦い)。
森可成ら織田軍の将を討ち取っています。
志賀の陣&宇佐山城の戦いで信長大ピンチ!超わかる信長公記74話
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このとき信長ら織田軍の主力は、石山本願寺と対峙(野田城・福島城の戦い)していたため大坂周辺におり、大事な家臣を救うことはできませんでした。
つまり信長からすると、”浅井・朝倉軍のせいで”
・大切な重臣とその配下を失った
・石山本願寺攻めを中断せざるを得なかった
・仕方がないので対決しにやってきたら、逃げ回って無駄に時間を使わされた
・日頃から顔を立ててきたつもりの将軍までもが、敵の味方をし始めた
ということになるわけです。
これでは鬱憤が溜まるのも当たり前ですし、生半可な対応では問題が長引くだけだと思うでしょう。
単なる説得&交渉では済まされんぞ
また、この流れとは直接関係ありませんが、このころ延暦寺にいた僧侶たちの行いにも問題がありました。
これまでの歴史の中でも、延暦寺の僧侶は、神輿を担いで朝廷に強訴することが珍しくなく、それでいて京都の北東=鬼門に位置することなどから「皇都の鎮守」を自称し、思い上がるようになっていたのです。
結果、本来仏僧ならば禁じられているはずの女色・魚肉食も平然とするようになっていたといいます。
文字通りの生臭坊主ですね。
長い歴史を持つ組織が腐敗することは珍しくありませんが、都の人々だって、こんな僧侶に守られて嬉しいとは思わないでしょう。
もちろん、鎌倉仏教の開祖たちや「愚管抄」の著者・慈円など、真面目に仏道修行に励み、後世に名を残した人も少なからずいます。
しかしそれ以上に腐敗がひどかったのが、戦国時代の延暦寺です。
武家のほうでもこれらを問題視し、なんとかしようとしたことはありましたが、いずれも失敗していました。
信長がそのあたりをどの程度知っていたか?
そこは定かではありませんが、「ただの説得や交渉だけでは変わりそうにない」ことは十二分に理解していたでしょう。
結果、「全山焼き討ち」といわれるほどの大虐殺というわけです。
老若男女の区別なく首を切り
果たしていかほどの虐殺が行われたのか?
『信長公記』では次のように記されています。
「根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂・神社・僧坊・経典を一切残さず焼き払った」
「老若男女の区別なく首を切り、信長の前で検分した」
「生きて引き出され、命乞いをした者も容赦なく首をはねた」
残虐行為が行われたのは事実でしょう。
しかし、前回(78話)でも述べた通り、自ら降伏にやってきた者については、戦った後でも基本的に許しています。
逃げ切れなかった――なんて戦闘が始まってから命乞いをされても、
「前から時間も逃げ道もあったのに、今さら何を言ってるんだ?」
としか思えなかったでしょう。
信長公記ではこの件について、
「これにより、信長は年来の鬱憤を晴らした」
と書いています。
現代人がここだけ読むと
「なんだ、信長はただ単に気に入らないからお寺を焼いたのか。なんてひどいヤツなんだ!!」
と感じてしまうかもしれません。
しかし実際には、信長も”鬱憤”どころではない実害を受けており、平和的解決が全く望めず、かつ世間への悪影響も大きい相手だからこそ、ここまでやったのです。
”全山”と呼べるほどの放火や虐殺ではなかった?
しかも、です。
近年の発掘調査などでは、
「”全山”と呼べるほどの放火や虐殺ではなかったのではないか?」
という見方も出てきています。
当時、既に比叡山の寺院の大部分は廃れており、山を降りた坂本周辺に機能が移っていた可能性が高いのだとか。
信長の比叡山焼き討ち事件~数千人もの老若男女を虐殺大炎上させたのは盛り過ぎ?
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織田軍は15日まで比叡山山頂の建物を焼き討ちしていますが、これは京都や近江・北陸などに
「たとえ延暦寺であっても、信長は容赦しない」
とアピールする意味が大きかったのかもしれません。
事実、『言継卿記』や『御湯殿の上の日記』など、京都でこの件を聞いた公家や後宮の侍女が書いた日記では、かなりの恐怖を感じたことが書かれています。
信長の目的が精神攻撃であれば、大成功だったんですね。
とはいえ、虐殺や焼き討ちの正確な規模については、まだ今後の研究が待たれるところ。
結論を出すのは早計かと思われます。
今回はここまでとしまして、信長公記内の時系列を先に進めましょう。
京都~近江の押さえは光秀に
焼き討ちが終わった後、9月20日に信長は周辺の滋賀郡を明智光秀に与えました。
光秀はこの後、坂本の地に城を築き、延暦寺残党を含めた周辺の押さえを務めることになります。
さらに9月21日、信長は河尻秀隆・丹羽長秀に命じ、高宮右京亮という人物とその一族を処刑させました。
彼らは【野田城・福島城の戦い】の際、本願寺側に通じて一揆勢を扇動したり、川口での戦いの最中に本願寺へ逃げ込んだりなど、織田軍にとって不利益なことばかりしていたからです。
これはこれで、致し方ないことですね。
このような凄惨な話の次は、意外にも全く違う話題が続きます。
紫宸殿や清涼殿など、永禄十二年(1569年)に始めた【内裏の修繕】のお話。
天皇のお住いを直していたわけです。
次回の公開をお待ちください。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
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『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)