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【安土宗論】
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勝者の浄土宗側には褒美を、そして……
法華宗の負けでした。
「仕掛けた側が負ける」という時点でだいぶ格好がつきませんが、すごいのはここからです。
宗論を見に来ていた聴衆たちが、法華宗側の僧衣を剥ぎ取ったり、打擲(ちょうちゃく・殴ること)したり、法華経八巻を破り捨てるなど、乱暴を働いたのです。
日頃から法華宗の信徒に恨みを持っていた人が多かったのか、その場の勢いに飲まれたのか、あるいは両方なのか……。
暴動が起きると、法華宗の僧侶や信徒たちはその場から逃げ出しました。
警備にあたっていた信澄たちはこれを追跡し、町口や渡舟場まで追いかけて捕らえます。
そして宗論の結果を記録し、ただちに信長へ提出しました。
すると信長も、昼ごろに浄厳院へ出向き、双方の当事者を召し出します。
まず、勝った浄土宗側の霊誉には扇(おうぎ)、主に発言した貞安に団扇(うちわ)を下賜し、二人を大いに褒め称えました。
審判を務めた景秀鉄叟にも、東坡の杖を進呈しています。
「東坡」といえば詩人の蘇東坡(そ とうば)ですが、今回の杖の由来については「堺の者から献上された」としか書かれておらず、はっきりしません。
敗者にくだされた斬首刑
敗者である法華宗側には、それぞれ罰が与えられました。
まず今回の宗論のキッカケとなった一人・大脇伝介を呼び出します。
「俗人のくせに問答を挑んで世間を騒がしただけでなく、霊誉長老の宿を引き受けたにもかかわらず、宗論中に味方になるでもなかった。不届き千万である」
そしてその首を斬りました……。
また、このとき「行状が悪い」といわれていた妙国寺の普伝という僧侶が法華宗側についていまして。
普伝は博識さでは随一として知られていながら、自分の着古した衣類を「仏縁を結ぶ」などと言って人に与えるなど、詐欺まがいのことをしていました。
信長は親交の深い公家・近衛前久からこのことを詳しく聞いていたらしく、
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細々と指摘した後にこう告げるのです。
「常日頃の行いに加え、この度は法華宗に帰依しているわけでもないのに、金品につられて味方し、宗論中も自分では発言せず、有利になるまで待ち構えていたとは許しがたい」
そして普伝の首も斬りました。
なんとも厳しい処分ですが、信長は宗教をダシにして不埒を働く者には容赦がありません。
その最たるものがかの有名な比叡山焼き討ちであり、
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近江の国内かつ信長の膝下・安土でこのようなことをすれば仕方なかったことでしょう。
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