羽柴秀吉の中国地方攻略をはじめ、光秀の丹波や、勝家の北陸、あるいは四国、畿内の諸勢力など。
全国各方面での戦闘が続く天正七年(1579年)の織田家ですが、一方で信長の権力強化は順調に進み、その象徴の一つ・安土城天主がいよいよ完成しました。
それは一体どのような建物だったのか?
『信長公記』を見てまいりましょう。
本稿は織田信長の足跡を記した『信長公記』を考察しており、今回はその180話目となります。
前話は以下の通り。
天正七年、二条晴良らの京都要人が相次いで病死した~信長公記179話
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どの階に何畳の部屋がいくつある?
どの階に何畳の部屋がいくつあって、どのように繋がっているか。
『信長公記』での安土城天主はそんな描かれ方をしておりますが、際立った特徴のない部屋も多いため、ここでは割とクセのあるところに注目してみましょう。
「間(けん)」という単位がよく出てくるので、覚えておくとイメージしやすいかもしれません。
当時用いられていた長さの単位で、ときの為政者によって少々差異はありますが、六尺(約180cm)以上であるところは共通しています。
信長の時代は六尺五寸(約195cm)だったようです。
また、各所の絵には中国などの伝説に出てくる人物が多々出てきます。
どれも古くから好まれた題材ですので、ご存知の方も多いかもしれません。
安土城は信長の死後に燃えてしまいましたが、同じ題材の絵を見て想像を巡らせるのも一興かと思われます。
信長亡き後に安土城がリアル炎上! 放火犯は信雄か 明智か それとも秀吉か?
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一階
石造りの土蔵になっていて、高さは十二間あまり(=約23.4m)ほどありました。
現代の建物なら5~6階建てくらいでしょうか。
二階
南北二十間、東西十七間、高さ十六間半の広さに、以下のような部屋がありました。
盆山というのは、飾り物の一種です。
箱庭や盆栽の中に、石や砂・苔などを積んで作った山のことをいいます。
信長の御用絵師・狩野永徳が命を懸けた天下一絵師への道 48年の生涯を振り返る
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三階
最も特徴的なのは、花鳥の絵が描かれた十二畳の部屋です。
ここには一段高くした四畳敷の間があり「御座の間」と呼ばれていたそうです。
「御座」というと偉い人の席があったということになりますが、著者である太田牛一が主君・信長を敬う形で”御座”と書いたものです。
少々余談ですが「信長は天皇の行幸を計画しており、安土城内にそのための建物を作っていた」という話もあります。
今日でも肯定・否定両方の説が入り乱れていますし、安土城の調査も完全に終わったとはいい難いところがありますので、ここでは大きく取り上げません。
他には以下のような部屋がありました。
【八畳】賢人の間、瓢箪から駒の絵
【八畳・十二畳】麝香の間
【八畳】仙人と宰相の図
【二十畳】馬の牧場の絵
【十二畳】西王母(※1)の絵
【納戸】
(※1)西王母……女仙人の中で最上位とされる女性
四階
この階は様々な絵から通称がついた部屋がたくさんありました。
【十二畳】岩に種々の木の絵→「岩の間」
【八畳】竜虎が闘う絵
【十二畳】複数の竹の絵→「竹の間」
【十二畳】複数の松の絵→「松の間」
【八畳】桐に鳳凰の絵
【八畳】許由と巣父(※2)の絵
【十二畳】西の二間に手毬桜の絵
【八畳】庭籠に鷹の子を飼っている絵→「鷹の間」
(※2)許由と巣父……二人とも古代中国の隠者。
許由(きょゆう)は清廉な人物として知られており、当時の皇帝・堯(ぎょう)がそれを知って帝位を譲りたいと申し出た。
しかし許由は俗世に全く興味がなく「汚らわしいことを聞いてしまった」と思い、川の水で耳をすすいで山に入ってしまった。
巣父(そうほ)も清廉な人物で、許由が耳をすすいだ川で牛に水を飲ませようとしていた。
しかし、耳をすすいだ理由を知って「そんな汚らわしい水を牛に飲ませるわけにはいかない」と立ち去った。
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