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【安土城天主】
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五階
南北の破風に四畳半の座敷があり「小屋の段」と呼ばれていた
六階
平面八角形で、外柱を朱、内柱を金に塗っていたといいます。
再現図等では、安土城の最も特徴的な部分として特記されていることも多く、よく知られていますね。
ここには釈迦が十大弟子に説法をする図、縁側に餓鬼・鬼の図、縁側の突き当りに鯱(※3)と飛竜が描かれていたといいます。
(※3)鯱……「しゃち」と読む。
水族館のショーでよく用いられる海棲哺乳類のシャチではなく、いわゆる「しゃちほこ」のこと。
元々は寺院の装飾に用いられていたが、信長が安土城の装飾に用いたことで武家に普及したといわれる。
七階
安土城天主閣の最上階です。
三間四方で、座敷の内外は全て金色。
内柱には上り竜・下り竜、天井には天人が舞い降りる図が描かれ、さらに座敷の内側には
・三皇五帝(※4)
・孔門十哲(※5)
・商山四皓(※6)
・竹林の七賢(※7)
の絵があったといいます。
また、狭間の戸は鉄製で黒漆塗りで、内外の柱も漆で布を貼った上に黒漆が塗られていたとか。
(※4)三皇五帝……中国最古の王朝・夏王朝のさらに前、三人の神と五人の聖人が世の中を治めていたという伝説。誰が当てはまるのか、即位順はどうなのか、などは諸説ある。
(※5)孔門十哲……儒教の祖・孔子の弟子の中で、最も優れた十人のこと。孔子が選んだのではなく、後世の人々が選んだといわれている。
(※6)商山四皓……「しょうざんしこう」と読む。中国・秦王朝末期に商山へ隠れた四人の賢者のこと。
(※7)竹林の七賢……三国時代、竹林で酒を飲みながら政治談義をしていたという七人の賢者のこと。
建設・装飾に関わった人
最後に、天主の建設・装飾に関わった人の名が一部記されています。
【七階の金具】
後藤光乗(ごとう こうじょう)他、京都や地方の金工たち
【六階以下の金具】
京都の躰阿弥永勝(たいあみ えいかつ)
【大工棟梁】
岡部又右衛門
【塗師頭】
刑部
【銀(しろがね)細工師頭】
宮西遊佐右衛門
【瓦】
唐人の一観と奈良の工人
【普請の担当奉行】
木村高重
木村高重は元六角家臣で、信長が永禄十一年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛した頃に織田家へ仕えたと考えられています。
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武将ではなく奉行タイプの人。
安土城天主の建設時だけでなく、普段から近江の商工業者や職人を取りまとめる立場にありました。
晩年は明らかになっていませんが、本能寺の変が起きた後、安土城に残っていたため、明智軍の入場を拒んで討ち死にしたともいわれています。
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現代でいえば工事の総責任者ですから、城への思い入れも人一倍だったでしょう。
彼は城に殉じたのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)