信長公記 皇室・公家

天正七年、二条晴良らの京都要人が相次いで病死した~信長公記179話

羽柴秀吉に命じて中国地方への侵攻に取り掛かった織田軍。

当初はスムーズにことを進めた秀吉でしたが、三木城の別所長治に裏切られたり、さらには伊丹城の荒木村重にも謀反を起こされるなど、一筋縄ではいきません。

なんせ背後にいるのは中国エリアの王者・毛利家です。

しかも織田家は、他に丹波・北陸・信濃・四国・畿内などで多くの敵と対峙しており、毛利家だけに注力するわけにもいきません。

かくして、どの戦線も長期化しつつあった天正七年(1579年)5月。

信長は自身の出馬にはこだわらず、5月1日に村重の籠もる伊丹城の近辺から京都に帰還したと『信長公記』には記されています。

本稿は織田信長の足跡を記した『信長公記』を考察しており、今回はその179話目となります。

前話は以下の通り(さらに過去記事をご覧になりたい方は→『信長公記』よりお選びください)。

乗馬した関白・近衛を織田家の家臣団に凸らせて(イミフな遊び)信長公記178話

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信長と親しかった公家が相次いで逝去

天正七年は京都の要人が相次いで病死したことも記されています。

信長公記がリアルタイムで書かれたものではないと考えられるため、5月の話なのに、6月に亡くなられた方も記載されておりますが、その辺はご承知おきください。

要人とは以下の通りです。

・三条西実枝
1月24日死去

・山科言継
3月2日死去

・二条晴良
4月29日死去

・烏丸光康
4月27日死去

・嵯峨天竜寺の策彦周良(さくげんしゅうりょう)
6月30日死去

上から四人は公家で、政治・社交面で信長と少なからぬやり取りをしていた人々です。

この中で最も有名なのは、山科言継でしょうか。

彼の日記『言継卿記』は、当時の朝廷や京都の様子、戦国大名との付き合い、はたまた剣豪・上泉信綱の実在を証明する記録まで、幅広く記載された貴重な史料となっています。

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『麒麟がくる』にも登場した二条晴良は

策彦周良は明(中国)に二度渡ったことがある高僧で、信長とも交流があった人物です。

あまり野心がなかったらしく、信長公記ではほとんど出てきません。

二条晴良は大河ドラマ『麒麟がくる』で小籔千豊さんが演じられ、近衛前久とのライバル関係が描かれておりましたね。

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ドラマをお楽しみの方はネタバレ申し訳ありません。上記メンバーの中で二条晴良だけが50代半ばで亡くなっています。現代から見ると若く見えますが、当時の寿命としては平均的でしょう。

他の四人は60代後半~70代後半でしたので、長生きの部類です。

死因については全て病死とされており、他に特記がないため、流行病などではなく全員寿命での往生だと考えて良さそうです。

信長が京都から安土へ出立したのは5月3日ですので、政務をこなしながら、彼らの屋敷へ弔問の使者くらいは出したかもしれません。

特に山科言継については信長の父・織田信秀の頃からの付き合いでもあり、何もしないほうが不自然ですから。

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秀吉が一計を案じ別所方の砦を奪取

3日に信長は山中越え(京都市左京区北白川~大津市)で坂本に向かい、そこからお小姓衆だけを連れて舟で安土へ向かいました。

この頃、いよいよ安土城の天主閣が完成し、あとは主である信長が住むだけとなっていたんですね。

そして吉日の5月11日、ついにその日がやってきます。

天主閣の様子については、次回180話で注目したいと思います。

少し日付が飛んで、5月25日。

中国地方での戦況に関する記述があります。

25日の夜、三木城の別所長治らと対陣中の羽柴秀吉が一計を案じました。

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播磨海蔵寺の砦(神戸市北区)に兵を忍び込ませ、乗っ取らせたのです。

これを受けて、翌26日に別所方が淡河城(神戸市北区)を退去。

砦一つだけではありますが、戦況をわずかでも有利に進めることは、このような長期戦においてとても重要です。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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