今回は、明智光秀が担当していた丹波平定のお話です。
丹波には「これぞ!」という強力な戦国大名がいない代わりに、複数の小大名・有力国衆がいて、彼らを中心に反織田の姿勢でいました。
波多野秀治については、以下の通り、前話において光秀が攻略しており、残るは赤井氏やその他の国衆たちでした。
それは一体どのような流れで進められたのか?
光秀による丹波平定を振り返ってみましょう。
本稿は織田信長の足跡を記した『信長公記』を考察しており、今回はその183話目(巻十二・第八節)となります。
前話は以下の通り。
光秀の丹波攻略が佳境に入るそのころ天才軍師亡くなる~信長公記182話
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反織田となっていた丹波衆
そもそも丹波衆は、上洛当時の足利義昭と織田信長に対しては協力的な立場でした。
それが反織田となったのは元亀3年(1572年)のころ。
ハッキリとした時期は不明ですが、武田信玄が【三方ヶ原の戦い】に勝利し、信長と義昭の分断が決定的となった――つまりは第二次信長包囲網が完成したころからのようです。
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彼らが信長を裏切ったのは、織田軍の形勢が不利になったから……ではなく、そもそも丹波衆が親幕府派だったからでした。
京都の隣にある丹波国だけに日頃から将軍家との結びつきが強かったのです。
そんな丹波の攻略を光秀が命じられたのは天正3年(1575年)。
今回の平定が天正7年ですので実に4年もの歳月を要しているのですが、光秀も丹波攻略だけに集中できたワケでもありません。
天正3年(1575年)には武田勝頼を相手に【長篠の戦い】も勃発しており、他にも本願寺攻めや松永久秀の信貴山城攻略などもありました。
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そして光秀の丹波攻略がようやくかなったのが天正7年(1579年)だったのです。
宇津頼重は城を退去
同年7月19日、光秀は丹波へ向けて出陣しました。
当時の敵対拠点は以下の3つ。マップで確認してみましょう。
右から
・宇津城(赤)
・八上城(黄)
・黒井城(紫)
・鬼箇城(緑)
となっていて、前述のとおり波多野秀治の八上城(黄)は既に攻略済みです。
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先に攻めたのは地理的にも京都に近い丹波宇津城(京都市右京区)。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも触れられていたように城主の宇津頼重は城を捨て、退却を図りました。
光秀は頼重らを追撃し、多数の首を挙げて安土へ送ったのですが、この城を陥落して喜んだのは信長だけでなく朝廷もそうでした。
というのも宇津頼重は朝廷領(禁裏料所)を度々強奪していたのです。
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