光秀の丹波平定

京都のある山城国に隣接し、朝廷や幕府との結びつきも強かった丹波

明智家 信長公記

光秀が丹波を平定!宇津城から鬼箇城と黒井城へ~信長公記183話

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
光秀の丹波平定
をクリックお願いします。

 


鬼箇城から黒井城へ

続けて光秀軍は鬼箇城を攻め、付近を焼き払いました。

さらに攻城の拠点として砦を築き、軍勢を配備しています。

鬼箇城については記録が乏しく、戦闘の経過もはっきりしていません。

その代わり……というわけではありませんが、8月9日には別の城を攻めています。

『信長公記』には”赤井直正”の立てこもる丹波黒井城(丹波市)へ攻め寄せた……とありますが、直正は天正六年(1578年)3月9日に病死していました。

赤井直正
光秀を最も苦しめた丹波の武将・赤井直正~悪右衛門尉50年の生涯とは

続きを見る

著者である太田牛一の誤記か勘違い、あるいは織田方に直正の死が知られていなかったということでしょうか。

直正の嫡子・直義はこの頃まだ10歳にもなっておらず、城内の指揮は直正の弟・幸家や、直正の兄の子・赤井忠家などが執っていたと考えられています。

城主病死という困難を乗り越えて持ちこたえてきた黒井城でしたが、さすがに一年以上経つと城内の空気も厭戦に傾いていたようです。

光秀は既に兵糧攻めも用いていますし、「明日は我が身」と思っていた者も多かったでしょう。

打って出てきた城方を明智軍が攻撃し、城内へ戻ろうとするところを追撃して外郭まで攻め込み、十余人を討ち取ったとか。

ここまでと覚悟したのか、城方は条件付きの降参に同意し、城から退去しています。

 


長年の丹波攻略の労に対し……

これらの戦果を、光秀は早速信長に報告しました。

信長は大いに褒め称え、長年の丹波攻略の労に対し、感状を与えたそうです。

後に「光秀は他の武将と比べて待遇が悪いことに不満を持っていたため、本能寺の変を起こした」という説が出てきますが、信長は功績を認めたときは素早く恩賞や感状を与えています。

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか? 本能寺の変における諸説検証で浮かんでくる有力説

続きを見る

望むものと与えられたものが等価でなければ、不満を抱く理由にはなりますが……。

要因の一つという可能性はありますが、主因は別のものでしょうね。


あわせて読みたい関連記事

明智光秀
史実の明智光秀は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたのか?

続きを見る

織田信長
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る

続きを見る

波多野秀治
丹波の戦国武将・波多野秀治の意地~光秀を一度は撃退するも最期は磔にされ

続きを見る

赤井直正
光秀を最も苦しめた丹波の武将・赤井直正~悪右衛門尉50年の生涯とは

続きを見る

武田信玄
武田信玄は本当に戦国最強の大名と言えるのか 戦歴や人物像に迫る53年の生涯

続きを見る

三方ヶ原の戦い
家康はなぜ信玄に戦いを挑んだ? 三方ヶ原の戦い 謎多き戦場を歩く

続きを見る

長篠の戦い
長篠の戦いで信長の戦術眼が鬼当たり!勝因は鉄砲ではなく天然の要害だった?

続きを見る

信長を2度も裏切った松永久秀は梟雄というより智将である~爆死もしていない!

続きを見る

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか? 本能寺の変における諸説検証で浮かんでくる有力説

続きを見る

信長公記のバックナンバーをご覧になりたい方は→『信長公記

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

TOPページへ


 



-明智家, 信長公記

×