1631年10月7日(寛永8年9月12日)、戦国大名の加藤嘉明が亡くなりました。
豊臣恩顧の武将であり、あの【賤ヶ岳の七本槍】にも選ばれた……なんて言うと、もう一人の加藤である「加藤清正」を思い出してしまうかもしれません。
◆賤ヶ岳の七本槍
・脇坂安治
・片桐且元
・平野長泰
・福島正則
・加藤清正
・糟屋武則
・加藤嘉明
実は、この嘉明も秀吉に重宝されて七名のメンバーに選ばれ、しかも最も長生きしているのですが、とにかく知名度がありませんよね。
近年の戦国ドラマで目立つシーンはほぼない。漫画でも同じ。
しかしその状況も2026年には変わるかもしれません。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でクローズアップされる可能性があるからです。
幼少のころより秀吉に仕えた加藤嘉明は、その後、紆余曲折を経ながら“水陸”で武勇を誇り、朝鮮では虎を狩ったことで知られるだけでなく、内政手腕も抜群。
最終的に徳川政権のもとで40万石の大大名まで上り詰めるのです。
ならばなぜ、現代では無名なのか?
いったい加藤嘉明とはどんな人物だったのか?
知られざる名将の生涯を振り返ってみましょう。
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松平家臣の子として生まれる
永禄6年(1563年)、三河国松平家康の家臣である加藤教明(のりあき)に男児が生まれました。
永禄年間は、石田三成、福島正則、細川忠興、黒田長政ら、豊臣政権で重要な役割を果たす人物が生まれた時代。
このまま父が松平家に仕えていたら、その男児は徳川家康の元で武勇をふるったことでしょう。
しかし、長男が生まれたその歳に、教明は【三河一向一揆】に加担し、そのまま出奔したため、親子揃って流浪の身となるのでした。
秀吉に見出された勇猛な若武者
教明は流れに流れ、近江国に辿りつきます。
そして、当時、長浜城主だった羽柴秀吉に出仕。
その子である加藤嘉明が加藤光泰の父・景泰の目に留まり、秀吉に出仕することとなったのでした。
秀吉の出自については諸説ありながら、身分が低いことだけは確かで、親の代からの家臣などおりません。
他家から出奔した者、主家を失った者たちにとっては受け入れられやすい条件が揃っています。
前述したように、永禄年間生まれの者たちは秀吉政権下で活躍した武将が多く輩出されており、光るものがあれば積極的に採用されたのでしょう。
まだ若い嘉明は、秀吉の養子・豊臣秀勝の小姓となりました。
しかし、積極的で先走る性格のため、ある事件を起こしてしまうのです。
天正4年(1576年)のころ、まだ若い嘉明は無断で【播磨攻め】の陣に参陣しました。
これに激怒したのが、秀吉の妻であり、秀勝の養母でもあった寧々。
放逐――つまり家から追い出すことを進言するほどの怒りでしたが、秀吉はむしろ「あっぱれなことである!」と許しました。
小姓としてのふるまいができないのか? ならば3百石の直臣として起用しよう。
ということで秀吉から直に取り上げられると、嘉明はその期待に応えるため必死で働きます。
天正6年(1578年)3月の【三木城攻め】で初陣を果たし、【備中須久毛山の戦い】では首級を2つも挙げました。
以降、勇猛果敢な若武者としてその名を知られてゆくのです。
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