加藤嘉明

加藤嘉明/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

秀吉子飼いの加藤嘉明は知られざる名将なり~淡路水軍も指揮して天下統一に貢献

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賤ヶ岳の七本槍に名を連ねる

天正10年(1582年)6月――加藤嘉明は主君・秀吉と共に転機を迎えます。

織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたのです。

当時、中国地方で毛利と対峙していた秀吉は急ぎ和睦を結ぶと、そのまま京へ戻り【山崎の戦い】で明智光秀とぶつかります。

もちろん加藤嘉明も参陣。

結果はご存知のとおり秀吉軍の快勝であり、この合戦に勝利して【清洲会議】を開き、その後、彼らと対立したのが柴田勝家でした。

猛将として知られる柴田勝家/wikipediaより引用

ご存知、織田家の重臣であり、お市の方を妻に迎えた柴田勝家。

秀吉は、この猛将として名高い勝家と【賤ヶ岳の戦い】で激突すると、当初は睨み合いが続き、最終的には前田利家による戦場からの撤退もあって秀吉が勝利を収めました。

ここで登場するのが、実は嘉明もメンバーに選ばれている【賤ヶ岳の七本槍】ですね。

実はこの呼称は当時のものではなく「江戸時代以降」とされますが、武勇抜群であったことは確かだったのでしょう。

働きが認められた嘉明は一気に3千石を得ることとなります。

嘉明は秀吉のもとで、勇猛な武将としてその存在感を見せ続けました。

天正12年(1584年)の【小牧・長久手の戦い】でも【紀州征伐】でも活躍。

翌年、天正13年(1585年)に秀吉が関白となると、他の豊臣恩顧の将と同じく従五位下となり、左馬助(さまのすけ)を拝領しました。

その後も【四国攻め】に加わり、伊予攻略で功をあげます。

そしてその結果、天正14年(1586年)に淡路国三原郡1万5千石で志知城主にまで上り詰めたのです。

 

日本を代表する水軍の将

加藤嘉明は秀吉子飼いの将でも、やや変わった特徴があります。

“淡路水軍”を率いているのです。

天正15年(1587年)【九州征伐】、天正18年(1590年)【小田原征伐】といった戦役でも同水軍は活躍しました。

と、簡単に書かれてしまいがちですが、嘉明は、九鬼嘉隆のようなナチュラルボーンな水軍の将とは異なり、後の努力で海での戦い方を学んだ者です。

征明を踏まえた秀吉なりの人事とはいえ、なかなか対応しきれないことでしょう。

淡路水軍を率い、各地で力戦した姿が描かれた『太平記英勇伝三十九』絵・落合芳幾/wikipediaより引用450

いずれにせよ嘉明の高い対応力は【文禄の役】での戦歴にも繋がってゆきます。

根っからの水軍である九鬼嘉隆と並び、日本水軍を率いて朝鮮・明の水軍と戦ったのです。

この戦歴が影響しているのか。大河ドラマはじめ日本の映像作品では長らく見られない存在ですが、韓国の映像作品では頻出。

近年では2022年韓国映画『ハンサン -龍の出現-』でもその姿が見られます。

しかし戦いそのものは、とにかく無謀でした。

乏しい補給と苦しい戦いの中、諸将の間には動揺が広がり、文禄3年(1594年)の和睦交渉で嘉明は一時帰国。

加増されて伊予6万石に封じられ、伊予正木城へ移りました。

平和は長くは続きません。

両国の和平交渉は決裂に終わり、慶長2年(1597年)に嘉明は再び渡海することになり、【慶長の役】の【漆川梁海戦】では、朝鮮水軍を殲滅する大勝利もあげました。

嘉明は苦しい戦線を維持しよう、と、どうにか奮戦をします。

が、現実はそう甘くありません。無謀すぎる戦いを前に兵たちの士気は落ち、義明自身も藤堂高虎らと対立を深め、石田三成などに対しても不信感を抱くようになります。

慶長3年(1598年)、秀吉の死により、この無益な戦いは終わりを告げました。

戦略に無理があるこの遠征、あとに残ったのは豊臣政権に対する大きな禍根だけでした。

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