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【加藤嘉明】
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関ヶ原では東軍につく
秀吉の死後、いわゆる【武断派】とされる諸将は、【文治派】である石田三成らと対立を深めます。
両者をとりまとめる役目を果たしていた【五大老】の前田利家が没すると、軋轢はますます拡大。
石田三成襲撃事件の七将は諸説ありますが、加藤嘉明も含まれていたとされます。
彼らは【五大老】の徳川家康を支持します。
そして慶長5年(1600年)、上洛要請を断った上杉景勝を討つべく、家康が【会津征伐】に向かうと、嘉明もこれに従軍。
そのタイミングで上方の毛利輝元や石田三成らも挙兵しました。
【関ヶ原の戦い】の始まりです。
と言っても、東西の両軍がいきなり現地に集まり「戦うぞ!」とやったわけではなく、東西両軍ともにジワジワと諸勢力・諸城を陥落させながら戦地へと近づいてゆきます。
加藤嘉明は、そのうち【岐阜城の戦い】と【大垣城の戦い】に参戦。
勢いに乗って出向いた【関ヶ原の戦い】の本戦でも東軍として戦い、見事、勝利に貢献するのです。
本拠地のある伊予でも、留守を任せた家臣たちが西軍を相手に守り抜きました。
家光の代、会津40万石の大名に
徳川家康からもその活躍を大いに認められた加藤嘉明。
10万石を加増され、20万石の大大名となり、江戸時代を迎えても堅実でした。
慶長6年(1601年)には築城許可を抜かりなく得て、のちの松山城となる勝山城築城に着手。
徳川に忠誠を誓う大名として、その築城術を江戸城、駿府城、名古屋城といった名城でも活かします。
慶長19年(1614年)の【大坂冬の陣】では居留守役を務めるも、翌慶長20年(1615年)の【大坂夏の陣】では徳川秀忠のもとに従軍し、豊臣の滅亡を見届けることになりました。
しかし、良いことばかりとはいきません。
同じく秀吉小飼として知られる猛将・福島正則が、元和5年(1619年)に除封改易を迎えてしまうのです。このとき嘉明は、正則の身柄を預かり、広島城を接収しました。
ちなみに加藤清正は大阪の陣より前の慶長16年(1611年)に死亡。
次々に豊臣恩顧たちの息遣いは消失していくのですが、徳川政権において加藤嘉明は堅実に信頼を得てゆきます。
元和9年(1623年)、徳川家光が3代将軍となる頃には最古参の大大名として名を連ね、寛永4年(1627年)、会津藩主の蒲生忠郷が無嗣減封で伊予松山藩へ転じられると、これと入れ替わるかたちで嘉明が会津藩へ移封となりました。
当初は藤堂高虎が会津藩主とされる予定でしたが高虎が固辞し、嘉明を推薦すると、これを機に両者は和解します。
そして寛永8年(1631年)、ついに嘉明も江戸で病没。
享年69。
豊臣恩顧の将でありながら徳川家康につき、大大名として全うした英傑の死でした。
子・明成が改易される
加藤嘉明にとって、あまりにも痛いのが跡を継いだ加藤明成でしょう。
不始末を起こし、改易されてしまったのです。
いったい何が起きたのか?というと、息子の加藤明成は父に比して統治能力が拙く、会津の領民たちは不満を募らせていました。
さらには対立した家老・堀主水に出奔されてしまうと、その後、弟ともども捕縛された主水を処刑してしまうのです。
こうした一連の事件で心が折れてしまったのか。
明成は幕府に対して「会津統治はできかねる」として所領返上を申し出ると、父・嘉明の功績が考慮され、明成の子・加藤明友には石見吉永藩1万石を与えられました。
完全なお取り潰しよりマシとはいえ、40万石から1万石への大減封です。
【会津騒動】と呼ばれるこの一件は、領民にとってもよほどのトラウマとなったのか。
「会津まつり」のような行事において、あるいは普段からの観光においても加藤の名前はほとんど取り上げられません。
あるいは山田風太郎の小説『柳生忍法帖』およびその漫画化『Y十M』で、加藤明成は好色極まりない暴君として描かれました。
この作品ゆえに「あぁ、あの残念な改易を迎えた大名か」という印象が強められてしまった感は否めません。
明成の不始末はあくまで彼のものであり、父は関係ないのです。
武功に優れ、水陸両方で活躍し、内政や築城術も高い加藤嘉明。
知られざる名将にもっとスポットが当たる日が来ることを祈ります。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
小川雄『水軍と海賊の戦国史』(→amazon)
渡邊大門『真実の戦国時代』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他