豊臣秀吉と徳川家康の対立――そのクライマックスは徳川家の重臣・石川数正が、秀吉のもとへ出奔したときでしょう。
数正と言えば、家康の幼少期から共に過ごしてきた、重臣中の重臣。
それがよりによって秀吉のもとへ走るなんて、いったい何があったのか?
今なお、その真相は不明とされますが、ここは視点を逆にして考えてみたいことがあります。
「なぜ秀吉は引き抜くことができたのか?」
秀吉にスカウトされ、豊臣家に引き抜かれた武将は何も石川数正だけではありません。
織田家にいるころから調略に長け、他国の切り崩し工作を担っており、一朝一夕に身に着けたものではない。
誘いに応じる武将にしたって、自らの生き残りを秀吉に賭けているわけで、単純に「裏切り者」と罵られる理由もないでしょう。
そこであらためて考えてみたい。
秀吉のスカウト術は何が凄かったのか。
そもそも主君を裏切るのはそこまで悪いことだったのか?
その根本となる「武士の忠義」から確認して参りましょう。
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武士草創期の「忠」とは
武士が主家を裏切るなんてありえない。
ショッキングな出来事だ。
そう思うとすれば、私たちが江戸時代を経て訪れた現代を生きているからでしょう。
例えば大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では当時の武士に「忠」など無く、源頼朝は「一番頼りにしているのはお前だ」と片っ端から坂東武者をハグしてコロリと味方にしていました。
いかにも三谷幸喜さんの創作のようにも思えますが、実は『吾妻鏡』の記述を元にしたシーン。
そんな素朴な坂東武者の中で、高潔な人格者としてうたわれ、「坂東武者の鑑」ともされる畠山重忠に注目してみましょう。
『鎌倉殿の13人』では中川大志さんが演じ、凛々しく高潔な姿は印象的でした。
しかし、そもそも彼は平氏方につき、外祖父である三浦義明を攻め滅ぼしています(【衣笠城の戦い】)。そこまでしておきながら結局は源氏に味方してしまいます。
高潔な重忠ですらそうなのです。
他の坂東武者たちも源頼朝に勢いアリとなると、みな靡くようにサーッとそちらへ味方をしてしまう――頼朝からすれば勝利は得ても由々しき問題でしょう。
躾のなっていない猛犬を率いているようなもので、もしも舐められたら一巻の終わり。
そこで頼朝なりに解決策を出しました。
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坂東武者の「忠」理解は無理なのか
『鎌倉殿の13人』で見せた頼朝の裏切り対策。
それは【奥州合戦】で表現されました。
自らの主君である藤原泰衡を討った河田次郎を「忠を知らぬ者」として斬首刑としたのです。
大物の首を持ってきたことで多大な恩賞を期待していた河田にしてみれば、納得がいかずに絶叫するほど。
主君を裏切った家臣の首を斬る――頼朝はそんなショック療法で「忠」の重要性を示そうとしたのです。
こうしたやり方を
指桑罵槐(しそうばかい)
桑を指(さ)して槐(エンジュ)を罵(ののし)る。
と言い、頼朝は家臣たちに「主君を裏切るのはまずいんだな」と知らしめました。
こうしてジワジワと「忠」を理解していった坂東武者たち。
しかし、その理解が中途半端ゆえにその後もトラブルは絶えず、結果的に鎌倉幕府の源氏将軍を追い詰めてしまいます。
源頼朝の死後、彼にかわいがられていた結城朝光がこんな風に漏らしていました。
「忠臣二君に仕えずっていうけど、頼朝様の亡くなった際に出家しておけばよかったなぁ」
するとこれを阿波局(北条時政の娘で『鎌倉殿の13人』では実衣)が聞きつけ、朝光に言います。
「梶原景時がその言葉を聞いて、あなたのことを謀反の疑いありと讒言するそうですよ」
困った朝光が、親しい三浦義村に助けを求めたところ、逆に梶原景時を追い出してやろう!ということで景時弾劾の署名が66人分も集まる。
結果、景時は鎌倉を出奔して、途中で討たれてしまいました。
文士の大江広元は、こうした顛末に関わりたくない様子でいたようですが、気持ちはわかります。
坂東武者たちは「忠」の理解が無茶苦茶――広元気分で語ってみると、こんな感じでしょう。
「“二君”とは、別勢力の二人の君主という意味であり、親から子への代替わりでは問題ないんですって!」
「忠とか言っておきながら、源頼家公の側近である梶原景時を弾劾するのはおかしいと思いませんか?」
「だいたいね、梶原景時殿も、主君・頼家の許可もなく家臣を処断するとすればおかしいでしょ」
「しかも梶原殿は主君に申し開きもせず、なぜ出奔するの? 頼朝公に遺児を託されたのに無責任。それこそ忠が足りないのでは? 頼家公と信頼関係を構築しましたか?」
要するに彼らの行動や考え方は全て間違っていたわけです。
かといってそれを説明しようにも、彼らはすぐキレて厄介だから諦めるしかない。広元の諦念は理解できます。
そして『鎌倉殿の13人』の最終盤ハイライトは、【承久の乱】を前にして、北条政子が坂東武者たちの忠誠心を目覚めさせる演説でした。
確かにドラマでも名演説でした。
しかし、坂東武者の絶対的規範は「御恩と奉公」であり、御恩がなければ奉公もしない、そんな交換条件のもとで初めて成立しています。
日本人への「忠」が浸透するのは、まだまだ先のこと――それが2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の終結地点でした。
では、豊臣秀吉の時代はどうか?
戦わずして寝返らせる実の大きな勝利
鎌倉期から時代がくだり、戦国時代の「忠」はどうなっていたか?
果たしてそれは日本に根付いていたのか?
というと、江戸時代のように絶対的な倫理観はなく、だからこそ秀吉が得意とした戦時の策が「寝返り工作」「誘引」でした。
中でも、秀吉が頭角を現したとされるのが、永禄10年(1567年)、斎藤龍興の守る【稲葉山城の戦い】です。
この城は竹中半兵衛重治が戒めに落城させたという話もあるなど、防御力に問題がなかったとは言い切れません。
しかし、それ以上に、家臣の心が龍興から離反していました。そこで秀吉は東美濃の城を守る者たちを次々に味方につけ、あっさりと落城させています。
織田信長が浅井長政と対峙した際にも、その能力は発揮されました。
天正元年(1573年)、浅井本拠地の小谷城にほど近い山本山城の城主・阿閉貞征を切り崩し、さらにはその後、浅井の守備兵を調略して織田勢を引き込ませた背後にも秀吉がおりました。
天正8年(1580年)の但馬攻めでは、山名豊国を降らせることで攻略にはずみをつけています。
秀吉の調略術は陸上だけでなく水の上でも発揮され、天正10年(1582年)には来島水軍で知られる来島通総(みちふさ)を寝返らせることにも成功しました。
いかがでしょう。記録に残されていない調略まで含めると、凄まじい数になりますよね。
本来なら、戦わなければならない相手をこうして降伏させているのですから、織田軍あるいは秀吉軍にとっては計り知れないほどの利益になったはず。
ゆえに【本能寺の変】が起きた後、秀吉が一気に天下人へのしあがったのも要は実力通りの結果だったに過ぎないのでしょう。
仮に明智光秀が思い通りに行動を進めていたとしても、徐々に切り崩されていった可能性は十分に考えられます。
ではなぜ、秀吉はそこまで調略が得意だったのか。
どんな人間的魅力があったのか、考察してみましょう。
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