秀吉のスカウト術

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

徳川から重臣・数正を引き抜いた秀吉のスカウト術|いったい何が凄いのか?

2024/05/28

豊臣秀吉と徳川家康の対立――そのクライマックスは徳川家の重臣・石川数正が、豊臣秀吉のもとへ出奔したときでしょう。

数正と言えば、家康の幼少期から共に過ごしてきた、重臣中の重臣。

それがよりによって秀吉のもとへ走るなんて、いったい何があったのか?

今なお、その真相は不明とされますが、ここは視点を逆にして考えてみたいことがあります。

「なぜ秀吉は引き抜くことができたのか?」

秀吉にスカウトされ、豊臣家に引き抜かれた武将は何も石川数正だけではありません。

織田家にいるころから調略に長け、他国の切り崩し工作を担っており、一朝一夕に身に着けたものではない。

誘いに応じる武将にしたって、自らの生き残りを秀吉に賭けているわけで、単純に「裏切り者」と罵られる理由もないでしょう。

そこであらためて考えてみたい。

秀吉のスカウト術は何が凄かったのか。

そもそも主君を裏切るのはそこまで悪いことだったのか?

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikipediaより引用

その根本となる「武士の忠義」から確認して参りましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

武士草創期の「忠」とは

武士が主家を裏切るなんてありえない。

ショッキングな出来事だ。

そう思うとすれば、私たちが江戸時代を経て訪れた現代を生きているからでしょう。

例えば大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では当時の武士に「忠」など無く、源頼朝は「一番頼りにしているのはお前だ」と片っ端から坂東武者をハグしてコロリと味方にしていました。

いかにも三谷幸喜さんの創作のようにも思えますが、実は『吾妻鏡』の記述を元にしたシーン。

そんな素朴な坂東武者の中で、高潔な人格者としてうたわれ、「坂東武者の鑑」ともされる畠山重忠に注目してみましょう。

月岡芳年画「芳年武者无類」

坂東武士の鑑と称された畠山重忠(月岡芳年画「芳年武者无類」/wikimedia commons

『鎌倉殿の13人』では中川大志さんが演じ、凛々しく高潔な姿は印象的でした。

しかし、そもそも彼は平氏方につき、外祖父である三浦義明を攻め滅ぼしています(【衣笠城の戦い】)。そこまでしておきながら結局は源氏に味方してしまいます。

高潔な重忠ですらそうなのです。

他の坂東武者たちも源頼朝に勢いアリとなると、みな靡くようにサーッとそちらへ味方をしてしまう――頼朝からすれば勝利は得ても由々しき問題でしょう。

躾のなっていない猛犬を率いているようなもので、もしも舐められたら一巻の終わり。

そこで頼朝なりに解決策を出しました。

 


坂東武者の「忠」理解は無理なのか

『鎌倉殿の13人』で見せた頼朝の裏切り対策。

それは【奥州合戦】で表現されました。

自らの主君である藤原泰衡を討った河田次郎を「忠を知らぬ者」として斬首刑としたのです。

大物の首を持ってきたことで多大な恩賞を期待していた河田にしてみれば、納得がいかずに絶叫するほど。

主君を裏切った家臣の首を斬る――頼朝はそんなショック療法で「忠」の重要性を示そうとしたのです。

こうしたやり方を

指桑罵槐(しそうばかい)

桑を指(さ)して槐(エンジュ)を罵(ののし)る。

と言い、頼朝は家臣たちに「主君を裏切るのはまずいんだな」と知らしめました。

こうしてジワジワと「忠」を理解していった坂東武者たち。

しかし、その理解が中途半端ゆえにその後もトラブルは絶えず、結果的に鎌倉幕府の源氏将軍を追い詰めてしまいます。

源頼朝の死後、彼にかわいがられていた結城朝光がこんな風に漏らしていました。

「忠臣二君に仕えずっていうけど、頼朝様の亡くなった際に出家しておけばよかったなぁ」

するとこれを阿波局(北条時政の娘で『鎌倉殿の13人』では実衣)が聞きつけ、朝光に言います。

「梶原景時がその言葉を聞いて、あなたのことを謀反の疑いありと讒言するそうですよ」

困った朝光が、親しい三浦義村に助けを求めたところ、逆に梶原景時を追い出してやろう!ということで景時弾劾の署名が66人分も集まる。

結果、景時は鎌倉を出奔して、途中で討たれてしまいました。

文士の大江広元は、こうした顛末に関わりたくない様子でいたようですが、気持ちはわかります。

坂東武者たちは「忠」の理解が無茶苦茶――広元気分で語ってみると、こんな感じでしょう。

「“二君”とは、別勢力の二人の君主という意味であり、親から子への代替わりでは問題ないんですって!」

「忠とか言っておきながら、源頼家公の側近である梶原景時を弾劾するのはおかしいと思いませんか?」

「だいたいね、梶原景時殿も、主君・頼家の許可もなく家臣を処断するとすればおかしいでしょ」

「しかも梶原殿は主君に申し開きもせず、なぜ出奔するの? 頼朝公に遺児を託されたのに無責任。それこそ忠が足りないのでは? 頼家公と信頼関係を構築しましたか?」

要するに彼らの行動や考え方は全て間違っていたわけです。

かといってそれを説明しようにも、彼らはすぐキレて厄介だから諦めるしかない。広元の諦念は理解できます。

そして『鎌倉殿の13人』の最終盤ハイライトは、【承久の乱】を前にして、北条政子が坂東武者たちの忠誠心を目覚めさせる演説でした。

確かにドラマでも名演説でした。

しかし、坂東武者の絶対的規範は「御恩と奉公」であり、御恩がなければ奉公もしない、そんな交換条件のもとで初めて成立しています。

日本人への「忠」が浸透するのは、まだまだ先のこと――それが2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の終結地点でした。

では、豊臣秀吉の時代はどうか?

 

戦わずして寝返らせる実の大きな勝利

鎌倉期から時代がくだり、戦国時代の「忠」はどうなっていたか?

果たしてそれは日本に根付いていたのか?

というと、江戸時代のように絶対的な倫理観はなく、だからこそ秀吉が得意とした戦時の策が「寝返り工作」「誘引」でした。

中でも、秀吉が頭角を現したとされるのが、永禄10年(1567年)、斎藤龍興の守る【稲葉山城の戦い】です。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikimedia commons

この城は竹中半兵衛重治が戒めに落城させたという話もあるなど、防御力に問題がなかったとは言い切れません。

しかし、それ以上に、家臣の心が龍興から離反していました。そこで秀吉は東美濃の城を守る者たちを次々に味方につけ、あっさりと落城させています。

織田信長が浅井長政と対峙した際にも、その能力は発揮されました。

天正元年(1573年)、浅井本拠地の小谷城にほど近い山本山城の城主・阿閉貞征を切り崩し、さらにはその後、浅井の守備兵を調略して織田勢を引き込ませた背後にも秀吉がおりました。

天正8年(1580年)の但馬攻めでは、山名豊国を降らせることで攻略にはずみをつけています。

秀吉の調略術は陸上だけでなく水の上でも発揮され、天正10年(1582年)には来島水軍で知られる来島通総(みちふさ)を寝返らせることにも成功しました。

いかがでしょう。記録に残されていない調略まで含めると、凄まじい数になりますよね。

本来なら、戦わなければならない相手をこうして降伏させているのですから、織田軍あるいは秀吉軍にとっては計り知れないほどの利益になったはず。

ゆえに【本能寺の変】が起きた後、秀吉が一気に天下人へのしあがったのも要は実力通りの結果だったに過ぎないのでしょう。

仮に明智光秀が思い通りに行動を進めていたとしても、徐々に切り崩されていった可能性は十分に考えられます。

ではなぜ、秀吉はそこまで調略が得意だったのか。

どんな人間的魅力があったのか、考察してみましょう。

 

秀吉の持つ「裏切らせ力」

秀吉には人を裏切らせる力があった。

しかも、その力は本質的に源頼朝とは異なるものです。

頼朝は父の源義朝が関東では英雄的な存在であり、坂東武者たちに「あの父の子ならば、ついていってみよう!」と思わせる有利な条件があった。

いわば源氏のブランド力を頼りとしたものです。

ひるがえって秀吉はどうか?

彼の身分は諸説ありますが、低い出自だったことは確かで、当時から「物売りをしていた卑しい者」という認識がありました。

当然ながら教養や礼儀作法はなく、頼朝のような口説き方もできません。

では、それを上回る人間的魅力があったのか?

というと、武士にとっては一族の生死がかかった場面で、そう単純な話でもないでしょう。

おそらくとびきりの好条件を提示するとか。このまま敵であることの不利益を恐怖を交えながら説明するとか。ときには、エゲツない脅迫手段にでも出るとか。

武士の損得勘定を刺激するキレ者だったことは間違いなく、当時から「油断がならぬ」と認識されていました。

秀吉の合戦というと、鳥取城や三木城、あるいは備中高松城などの徹底した兵糧攻めがおなじみですが、

戦国時代屈指の凄絶な籠城戦となった「鳥取の渇え殺し」と「三木の干し殺し」。豊臣秀吉と黒田官兵衛はいかにして2つの城を兵糧攻めしたか。史実から振り返る。
鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し|秀吉と官兵衛が仕掛けた凄絶な飢餓の包囲戦

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戦術プランが練られるとき、その主軸に置かれたのが「調略」や「スカウト戦術」であったとしても不思議ではありません。

自軍に限らず戦死者が減り、戦場が狭まれば、それだけ合戦コストは軽減されます。

「徳川家康が最も恐れた男は何人いるのか?」という戦国時代定番のネタがありますが、さしずめ秀吉ならこんなところでしょう。

「豊臣秀吉がスカウトを仕掛けた名臣は何人いるのか」

手強い相手と真正面から戦うより、仲間に引き込んじまったほうが早い――秀吉は、自分の弁舌・調略術に自信を持ち、かつ、それが最上の手だと理解していたのでしょう。

スカウト術は、彼が天下人になる上で絶対に欠かせないものでもありました。

 


スカウト術に靡かぬ忠臣もいた

なぜ秀吉は頻繁にスカウトを繰り返したのか?

いちいち敵を仲間にしていては、分捕った領地の取り分も減ってしまうのではないか?

そこに影響してくるのが、やはり彼の出自です。

父祖の代から仕える家臣がおらず、新たに育てるにしても時間がかかる。ならば他家から引き抜いた方がはるかに効率的だ。

秀吉躍進の元にいた二兵衛こと竹中半兵衛重治と黒田官兵衛孝高も、元は他家に仕えていました。

西の戦国無双として讃えられる立花宗茂も、その力量を見込んだ秀吉が大友氏から引き立てて大名にしました。

もちろん、失敗例だってあります。

上杉家の直江兼続と、伊達家の片倉小十郎景綱で、この二人には共通点があります。

元々名門武家の出身でなかった彼らは、上杉景勝と伊達政宗という主君に大抜擢され、重要なポジションに就いていました。

となれば、周囲からの嫉妬も激しく、秀吉としても、そんな心の隙間をつくようにして言い寄ったことでしょう。

いくら上杉と伊達が伝統のある名門大名でも、天下人の直臣になったほうが実入りはデカく、社会的なポジションも上です。

『忠義か? さらなる出世か?』

スカウトされてそう悩んでしまう時点で、もはや人は弱くなってしまう。

それを堂々と跳ね除けた直江兼続と片倉小十郎景綱は、堅忍不抜の精神を持ち合わせていたに違いありません。

特に、片倉景綱の主君である伊達政宗は気難しい性格ですから、その下で働くのはそうそう楽ではないはず。

実際、伊達家一門の伊達成実すら出奔したことがありましたし、景綱の姉で政宗の乳母であった片倉喜多ですら政宗から勘気を蒙り、遠ざけられたことがあります。

そうした状況を鑑みれば、景綱の忠誠心というものは「忠」が重んじられる時代においては素晴らしいもの。

現在に至るまで兼続と景綱が人気を有しているのは、秀吉のスカウト術になびかなかった一面も大きいはずです。

一方で微妙な評価となってしまっている石川数正。

彼は結局、天下人の誘惑に負けてしまいました。

徳川家康だって相当な権力者だったのに、なぜ数正は秀吉のもとへ走ってしまったのでしょう……。

 

石川数正という不都合な史実

時は天正13年(1585年)――石川数正が家康のもとを去り、秀吉に寝返ったのは最悪のタイミングでした。

前年に【小牧・長久手の戦い】があり、徳川としては合戦に敗北はしてないけれど、政治外交面から大きく遅れを取ることになった。

豊臣政権が盤石となるにせよ、徳川としては相応の勢力を保持しなければならない――そんな場面です。

しかも石川数正の場合、兼続や景綱とは異なり、父祖の代から松平家に仕え、数正自身も家康が幼い頃から近侍として仕える、徳川家にとっては無くてはならない存在でした。

石川数正/wikipediaより引用

当然、数正だってそれを理解していたでしょう。

だからこそ秀吉も誘ったわけですが、それにしてもなぜ豊臣へ走ったのか?

実は、その理由が今なおハッキリとしないため、

・秀吉に惚れた

・豊臣へ内通していると噂が広まってしまった

・松平信康の扱いに不満があった

・豊臣へ出奔したのは表向きの姿であり実は家康のスパイだった

などなど、後世さまざまな理由が推察されていて、以下の記事にその考察が詳しいですが

石川数正
石川数正の生涯|なぜ秀吉の下へ出奔したのか 豊臣政権の崩壊後はどうなった?

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正しい理由が一つだけとは限らず、複合的な要因で秀吉傘下となった可能性も十分に考えられるでしょう。

そこをどう描くか?

というのはフィクションならではの見どころでもあり、例えば大河ドラマ『おんな城主 直虎』での石川数正は、築山殿が自ら罪を被り悪女として処断される様に憤る姿が見てとれます。

劇中で数正の裏切りは描かれませんでしたが、伏線としてうまく描かれていた。あの数正の表情を見ていると、寝返ることもやむなしと思えたものです。

では、今年の『どうする家康』はどうか?

今年の家康は、第一話からいきなり「戦はいやなんじゃあ!」と戦場から逃げ出す情けない総大将でした。

武勇を誇るはずの総大将が「怖いから逃げる」なんてのは言語道断。

武士は、もしも背中に傷が残ると、敵に背を向けた(=逃げたところを斬られた)と見なされ、当人は酷い恥辱と感じたものです。

そうした武士の大前提が呆気なく崩れていて、石川数正の出奔という一大事件でも『あの家康なら逃げられて当然だよね……』と思われかねません。

とにかく史実における数正の出奔は、徳川や家康にとって、悪夢のようなものでした。

というのも戦国大名の根幹を成す武力、徳川の軍学は石川数正が組み立てたものであり、いわば軍事機密が漏洩したに等しかったからです。

 


数正出奔の影響

数正が豊臣へ走ってしまった以上、徳川軍のあり方を根本から変えなければならない。

しかし、一から作り直すのは時間的にも厳しい。

そこで徳川では、武田の甲州流軍学を採用することにしました。

旧武田軍の人材を味方に引き入れていることもあり、家康としても他に選択肢はなかったのかもしれません。

結果、思わぬところへも影響が及び、「あの甲州流軍学をマスターしている山本勘助はすごい!」という、勘助のイメージ像も膨れ上がっていったりしてます。

山本勘助の肖像画

山本勘助/wikimedia commons

しかも、です。

徳川政権を樹立した家康は、社会を安定させるため、武士を中心に「忠」を浸透させなければならない、切羽詰まった状況がありました。

その身内に裏切り者がいるというのは大変な不都合となります。

結果、幕府を挙げて石川数正のネガティブキャンペーンが行われ、それが未だに影響しているせいで、出奔の真実がわかりにくくなっているのではないでしょうか。

 

武士の「忠」江戸時代以降に確固となる

江戸幕府を開いた徳川家康は、儒学者の林羅山を重用し、武士に朱子学を叩き込むこととしました。

時代が降ると庶民まで儒教が浸透し、日本人ならば忠誠心があって当然だと信じるようになってゆきます。

そんな朱子学を学んだ武士にとっては「これぞ忠だ!」と感涙を流す漢詩があります。

南宋の忠臣・文天祥が詠んだ『正気の歌』です。

南宋が滅び、クビライに仕えるよう勧められても断り続けた文天祥は、最終的に彼の望む死刑に処された――。

特に幕末ともなると、

「嗚呼、これぞまさしく武士のあるべき姿ではないか!」

として、我が身と重ねる人物が続出しました。

吉田松陰、藤田東湖、広瀬武夫らは、それぞれ己の『正気の歌』を詠み「忠」を歌い上げています。

「忠」の理解がチグハグしていた坂東武者の頃と比べると、思えば遠くへ来たものです。

慶應義塾の創設者として知られる福沢諭吉も、三河武士の忠誠に感動していた一人です。

 


福沢諭吉が激怒した理由

幕府が終焉するまでの過程があまりにも情けない――。

そう歯軋りしていた幕臣の福沢諭吉。蘭学を愛する福沢は儒教を軽侮していましたが、三河武士の忠誠は高く評価していました。

もはや理屈ではありません。

「忠あっての日本人だ」と、徳川の支配が終わるころには、誰もが信じるようになっていたのです。

家康の時代は、まだまだ通過点です。

石川数正の裏切りにしても確かに影響は大きかったけれど、戦国時代という舞台を考えれば、そこまで激烈に非難されるものではなかったでしょう。

しかし、だからこそ意識が変えられてきた。

その積み重ねの上に、私たちは今を生きています。

再び福沢諭吉に注目しますと、彼は「忠臣二君に仕えず」という言葉を破った勝海舟と榎本武揚に激怒していました。

他の幕臣、例えば栗本鋤雲ら「その通りだぜェ!」と福沢に賛同しています。

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しかし勝海舟の場合、彼なりの言い分もあるでしょう。

彼にとって忠誠を尽くす「公方様」は14代将軍の徳川家茂であり、その後、江戸ではなく京都で急遽将軍となった15代将軍の徳川慶喜は、あくまで「一橋家当主」でしかありません。

福沢に激怒されても、筋違いだろうが、と思っていたのではないでしょうか。

「忠」ゆえに苦しんだのは、彼らのような有名人ばかりではありません。

「忠臣二君に仕えず」という鎖に縛られた旗本御家人たちは明治新政府へ出仕できない。

江戸改め東京には、困窮する武士が大勢いました。

いわば武士の「忠誠心」の終着点とも言えるでしょう。

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大河ドラマ『青天を衝け』でも、将軍・慶喜と幕臣・渋沢栄一が「忠義で結ばれていたドラマ」として描かれています。

しかし、明治の江戸っ子たちにしてみれば真逆の感覚。

「公方様の世を投げ出した豚一(豚を好む一橋家のアイツという意味・慶喜のあだ名)と、その家臣がなんかうめえことやってんな!」

にも関わらず、現代人が『青天を衝け』を見て、慶喜と栄一の主従関係に感動を誘われたとしたら、やはり「忠」の感覚が我々庶民にまですっかり浸透している証拠にほかなりません。

ですので、もしも『どうする家康』で秀吉のもとに走る数正を見て、

「あんな家康は裏切られて当然だわ」

と思われたとしたら、非常に遺憾なこと。

福沢諭吉もこよなく愛した三河武士の忠誠は、大河ドラマによってどこへ行ってしまうのでしょう。

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【参考文献】
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon
梅原郁 『文天祥』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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