秀吉のスカウト術

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

徳川から重臣・数正を引き抜いた秀吉のスカウト術はいったい何が凄いのか?

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数正出奔の影響

数正が豊臣へ走ってしまった以上、徳川軍のあり方を根本から変えなければならない。

しかし、一から作り直すのは時間的にも厳しい。

そこで徳川では、武田の甲州流軍学を採用することにしました。

旧武田軍の人材を味方に引き入れていることもあり、家康としても他に選択肢はなかったのかもしれません。

結果、思わぬところへも影響が及び、「あの甲州流軍学をマスターしている山本勘助はすごい!」という、勘助のイメージ像も膨れ上がっていったりしてます。

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しかも、です。

徳川政権を樹立した家康は、社会を安定させるため、武士を中心に「忠」を浸透させなければならない、切羽詰まった状況がありました。

その身内に裏切り者がいるというのは大変な不都合となります。

結果、幕府を挙げて石川数正のネガティブキャンペーンが行われ、それが未だに影響しているせいで、出奔の真実がわかりにくくなっているのではないでしょうか。

 


武士の「忠」江戸時代以降に確固となる

江戸幕府を開いた徳川家康は、儒学者の林羅山を重用し、武士に朱子学を叩き込むこととしました。

時代が降ると庶民まで儒教が浸透し、日本人ならば忠誠心があって当然だと信じるようになってゆきます。

そんな朱子学を学んだ武士にとっては「これぞ忠だ!」と感涙を流す漢詩があります。

南宋の忠臣・文天祥が詠んだ『正気の歌』です。

南宋が滅び、クビライに仕えるよう勧められても断り続けた文天祥は、最終的に彼の望む死刑に処された――。

特に幕末ともなると、

「嗚呼、これぞまさしく武士のあるべき姿ではないか!」

として、我が身と重ねる人物が続出しました。

吉田松陰藤田東湖広瀬武夫らは、それぞれ己の『正気の歌』を詠み「忠」を歌い上げています。

「忠」の理解がチグハグしていた坂東武者の頃と比べると、思えば遠くへ来たものです。

慶應義塾の創設者として知られる福沢諭吉も、三河武士の忠誠に感動していた一人です。

 


福沢諭吉が激怒した理由

幕府が終焉するまでの過程があまりにも情けない――。

そう歯軋りしていた幕臣の福沢諭吉。蘭学を愛する福沢は儒教を軽侮していましたが、三河武士の忠誠は高く評価していました。

もはや理屈ではありません。

「忠あっての日本人だ」と、徳川の支配が終わるころには、誰もが信じるようになっていたのです。

家康の時代は、まだまだ通過点です。

石川数正の裏切りにしても確かに影響は大きかったけれど、戦国時代という舞台を考えれば、そこまで激烈に非難されるものではなかったでしょう。

しかし、だからこそ意識が変えられてきた。

その積み重ねの上に、私たちは今を生きています。

再び福沢諭吉に注目しますと、彼は「忠臣二君に仕えず」という言葉を破った勝海舟と榎本武揚に激怒していました。

他の幕臣、例えば栗本鋤雲ら「その通りだぜェ!」と福沢に賛同しています。

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しかし勝海舟の場合、彼なりの言い分もあるでしょう。

彼にとって忠誠を尽くす「公方様」は14代将軍の徳川家茂であり、その後、江戸ではなく京都で急遽将軍となった15代将軍の徳川慶喜は、あくまで「一橋家当主」でしかありません。

福沢に激怒されても、筋違いだろうが、と思っていたのではないでしょうか。

「忠」ゆえに苦しんだのは、彼らのような有名人ばかりではありません。

「忠臣二君に仕えず」という鎖に縛られた旗本御家人たちは明治新政府へ出仕できない。

江戸改め東京には、困窮する武士が大勢いました。

いわば武士の「忠誠心」の終着点とも言えるでしょう。

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大河ドラマ『青天を衝け』でも、将軍・慶喜と幕臣・渋沢栄一が「忠義で結ばれていたドラマ」として描かれています。

しかし、明治の江戸っ子たちにしてみれば真逆の感覚。

「公方様の世を投げ出した豚一(豚を好む一橋家のアイツという意味・慶喜のあだ名)と、その家臣がなんかうめえことやってんな!」

にも関わらず、現代人が『青天を衝け』を見て、慶喜と栄一の主従関係に感動を誘われたとしたら、やはり「忠」の感覚が我々庶民にまですっかり浸透している証拠にほかなりません。

ですので、もしも『どうする家康』で秀吉のもとに走る数正を見て、

「あんな家康は裏切られて当然だわ」

と思われたとしたら、非常に遺憾なこと。

福沢諭吉もこよなく愛した三河武士の忠誠は、大河ドラマによってどこへ行ってしまうのでしょう。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon
梅原郁 『文天祥』(→amazon

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