「◯◯反対へのデモに◯万人!(主催者発表)」という報道など。
現代にいたるまで誇大表示というのは後を絶たない。
歴史書でもそれは同じ。「A将軍の作戦大成功」と書かれていたとしても、果たして本当かどうか。
そこで注目したいのが戦国成り上がりのスーパースター・豊臣秀吉だ。
足軽レベルの階級からの立身出世は【庶民にも人気絶大だった】と言われたりもするが、実際はかなり怪しい。
人気があったのは、あくまで江戸時代以降のこと。
秀吉本人はむしろ存命中は逆だったふしがある。
一体どういうことか?
秀吉の庶民人気の証明とされた大茶会だが
秀吉が京都の北野天満宮で行った有名なイベントに、北野大茶会というのがある。
1587年11月1日(天正15年10月1日)に開催されたもので、庶民から大名まで興味がある人なら身分の分けへだてなく、天下人・秀吉とお茶ができる――そんな画期的なイベントだった。
メインは、もちろん秀吉の茶。
とはいえ全員を相手にできるわけもない。
そこで当日、その場で抽選が行われ、
へと振り分けられた。
利休をはじめとする2等以下は、当時最高峰の茶人である。
秀吉は、神社の拝殿に40点もの名物の茶器(一つで城持ちに相当するものばかり)をせっせと並べ、利休らは経堂という建物に茶席を設けた。
なぜ1日で終了したのか謎だったが
歴史の教科書では、大勢の人が押し寄せて大成功――そうなっている北野大茶会。
しかし、この大茶会には謎があった。
当初の開催期間は10日の予定だったのに、わずか1日で終わっていたのである。
一体どうした?
事件や謀反など、大きなトラブルでもあったら、それこそ現代に伝わっていてもいいはずなのに、なぜ?
わずか1日で中止にした理由は、佐々成政のいる肥後(熊本県)で反乱が起きたことや、秀吉が多数の客をさばいて面倒になったとも言われてきた。
しかし、本当の理由は「秀吉のメンツ」だったようだ。
これだけ豪華な演出にもかかわらず、初日に秀吉とお茶を飲みたいとくじを引いたのが、わずか803人しかいなかったのだ。
九州商人にはアタマを下げて別の茶会
現代のアイドルグループがコンサートで何万人も動員するように、秀吉はこのとき10万単位で兵を動かしていた。
そんな大物が、庶民相手に【気さくに会ってくれる】という貴重な場である。
興味本位、好奇心をかきたてられた人々が、少なくとも数千人単位でやってくると考えていたのであろう。
にもかかわらず、800人しか来ない。
これがかなりの計算外だったのではなかろうか。
自分以外に集めた茶人が『堺』の人間ばかりで、プライドの高い京都人たちに受け入れられなかったという見方もあるが、いずれにせよ自身のプライドもズタボロにされた秀吉は2日目以降を急遽中止にしてしまう。
まるで「客のノリが悪い!」として突如ステージを降りてしまうワガママな大物外タレ……。
2日目以降に参加するつもりで九州から招かれた商人には、秀吉が頭を下げ、後日、わざわざ専門の茶会を開催するほどだった。
やはり秀吉には、途中で中止にしたことに対して引け目があったのだろう。
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川和二十六・記
【参考】
『秀吉の智略「北野大茶湯」大検証』(→amazon)