中村一氏

中村一氏/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

豊臣三中老に抜擢された戦国武将・中村一氏の生涯~蛸地蔵伝説のエピソードに注目

1600年8月25日(慶長5年7月17日)は戦国武将・中村一氏の命日です。

秀吉子飼いの武将として重用され、豊臣政権では「三中老」に抜擢。

五大老や五奉行に準ずる存在として地味に重要な役割を任された人ですが、現在では決して注目度が高いとは言えませんよね。

しかし、2026年に大河ドラマ『豊臣兄弟』が始まるのを機に、大化けする可能性がないわけではない。

映像化したらなかなか強烈な「蛸(タコ)に関するエピソード」が残されているのです。

いったい何のこっちゃ?と思われるかもしれませんが、まぁ、とにかく読んでいただきたい、中村一氏の生涯を振り返ってみましょう。

中村一氏/wikipediaより引用

 


秀吉子飼いの武将

中村一氏の生年は不明。

幼少期も不詳であり、元は武士ですらなかった可能性もあるでしょう。

しかし秀吉子飼いの一人とみなされ、天正元年(1573年)に織田信長から秀吉が長浜を与えられた際は、一氏にも200石が与えられています。

若い頃の一氏は武勇での目立つエピソードはなく、足跡を辿るのは困難です。

秀吉が中国攻めに取り掛かった後の話として『名将言行録』には、ちょっと微妙な気分になる話が載っています。

『名将言行録』の中身は史実準拠ではありませんが、多くのフィクションで引用されておりますので、それを踏まえて振り返ってみましょう。

天正六年(1578年)、織田家に協力的だった別所長治が突如離反した後のことです。

別所長治/wikipediaより引用

秀吉が長治の家臣・中村五郎忠滋という者に

「こちらの兵を引き入れてくれれば、褒賞をやろう」

と工作を仕掛けました。

忠滋はこれを引き受け、娘を人質に出して羽柴軍の兵を引き入れたといいます。

しかし彼は長治への忠節を失っておらず、引き入れた羽柴兵を自軍に取り囲ませ、一人残さず討ち果たしてしまったのです。

当然、秀吉は激怒。

人質となっていた娘を殺しました。残酷に見えますが、人質とはそういうものですので……。

結局、戦いが終わったのは天正八年(1580年)1月のことでした。

「三木の干殺し」といわれる過酷な兵糧攻めにより、長治らの切腹と引き換えに城兵の命は助けられました。

しかし、秀吉の中村五郎忠滋に対する怒りは消えていなかったのか、戦後も捜索活動は続き、後日、丹波の山奥で見つけられます。

そして残酷な処刑をされ……るかと思いきや、秀吉の対応は真逆でした。

絵・富永商太

「わしを騙して兵を討ったことについては細切れにしても飽きたらぬ。

しかしお主が、主人のために娘を見捨ててまで忠節を尽くしたのは天晴れなこと!」

そういって忠滋を中村一氏の与力(部下)として、3000石を与えてやったというのです。

 


数々の合戦で秀吉の信頼を得て

一氏がどう反応したのか?

その辺は記されておらず、こんな経緯で来た人を突如部下にされてもなかなか扱いに困りますよね。

話が前後しますが、中村一氏は

天正九年(1581年)鳥取城攻め

天正十年(1582年)山崎の戦い

にも参加。

さらに天正十一年(1583年)年2月には羽柴秀次(当時は三好信吉)の補佐として滝川一益と戦っています。

豊臣秀次(羽柴秀次・三好信吉)/wikipediaより引用

本能寺の変後、織田家の旧臣たちが骨肉の権力争いを繰り広げていた頃です。

中村一氏に対する秀吉からの大きな信頼は、こうした戦いを経て揺るぎないものへ醸成していったのでしょう。

さらにこの後、一氏は大役とインパクトのデカ過ぎる逸話を担うことになります。

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