中村一氏

中村一氏/wikipediaより引用

豊臣家

中村一氏の生涯|豊臣三中老に抜擢された戦国武将「蛸地蔵伝説」とは?

2025/08/24

1600年8月25日(慶長5年7月17日)は戦国武将・中村一氏の命日です。

秀吉子飼いの武将として重用され、豊臣政権では「三中老」に抜擢。

五大老や五奉行に準ずる存在として地味に重要な役割を任された人ですが、現在では決して注目度が高いとは言えませんよね。

しかし、2026年に大河ドラマ『豊臣兄弟』が始まるのを機に、大化けする可能性がないわけではない。

映像化したらなかなか強烈な「蛸(タコ)に関するエピソード」が残されているのです。

中村一氏/wikipediaより引用

いったい何のこっちゃ?と思われるかもしれませんが、まぁ、とにかく読んでいただきたい、中村一氏の生涯を振り返ってみましょう。

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秀吉子飼いの武将

中村一氏の生年は不明。

幼少期も不詳であり、元は武士ですらなかった可能性もあるでしょう。

しかし秀吉子飼いの一人とみなされ、天正元年(1573年)に織田信長から秀吉が長浜を与えられた際は、一氏にも200石が与えられています。

若い頃の一氏は武勇での目立つエピソードはなく、足跡を辿るのは困難です。

秀吉が中国攻めに取り掛かった後の話として『名将言行録』には、ちょっと微妙な気分になる話が載っています。

『名将言行録』の中身は史実準拠ではありませんが、多くのフィクションで引用されておりますので、それを踏まえて振り返ってみましょう。

天正六年(1578年)、織田家に協力的だった別所長治が突如離反した後のことです。

別所長治/wikipediaより引用

秀吉が長治の家臣・中村五郎忠滋という者に

「こちらの兵を引き入れてくれれば、褒賞をやろう」

と工作を仕掛けました。

忠滋はこれを引き受け、娘を人質に出して羽柴軍の兵を引き入れたといいます。

しかし彼は長治への忠節を失っておらず、引き入れた羽柴兵を自軍に取り囲ませ、一人残さず討ち果たしてしまったのです。

当然、秀吉は激怒。

人質となっていた娘を殺しました。残酷に見えますが、人質とはそういうものですので……。

結局、戦いが終わったのは天正八年(1580年)1月のことでした。

「三木の干殺し」といわれる過酷な兵糧攻めにより、長治らの切腹と引き換えに城兵の命は助けられました。

しかし、秀吉の中村五郎忠滋に対する怒りは消えていなかったのか、戦後も捜索活動は続き、後日、丹波の山奥で見つけられます。

そして残酷な処刑をされ……るかと思いきや、秀吉の対応は真逆でした。

絵・富永商太

「わしを騙して兵を討ったことについては細切れにしても飽きたらぬ。

しかしお主が、主人のために娘を見捨ててまで忠節を尽くしたのは天晴れなこと!」

そういって忠滋を中村一氏の与力(部下)として、3000石を与えてやったというのです。

 


数々の合戦で秀吉の信頼を得て

一氏がどう反応したのか?

その辺は記されておらず、こんな経緯で来た人を突如部下にされてもなかなか扱いに困りますよね。

話が前後しますが、中村一氏は

天正九年(1581年)鳥取城攻め

天正十年(1582年)山崎の戦い

にも参加。

さらに天正十一年(1583年)年2月には羽柴秀次(当時は三好信吉)の補佐として滝川一益と戦っています。

豊臣秀次(羽柴秀次・三好信吉)/wikipediaより引用

本能寺の変後、織田家の旧臣たちが骨肉の権力争いを繰り広げていた頃です。

中村一氏に対する秀吉からの大きな信頼は、こうした戦いを経て揺るぎないものへ醸成していったのでしょう。

さらにこの後、一氏は大役とインパクトのデカ過ぎる逸話を担うことになります。

 

岸和田合戦

天正十二年(1584年)5月、中村一氏は和泉・岸和田城の守備を命じられました。

だんじり祭りで有名な大阪府岸和田市にある城で、紀伊(和歌山)エリアに対する防衛拠点。

この頃の秀吉は、小牧・長久手の戦いのため同年3月から上方を留守にしており、長宗我部氏や雑賀衆など、敵対勢力に対する警戒のため中村一氏が岸和田城を守ることとなったのです。

もしもここを突破されると、大坂から多方面へ展開されてしまう、かなり重要性の高いポイント。

案の定、根来衆や雑賀衆などの連合軍3万ほどが攻め寄せてきました。

彼らは、鉄砲の名手として名高い傭兵集団です。

対する中村一氏は、松浦宗清などと共に城の防御に徹しました。

岸和田城

合計8,000程の兵で一氏は、どうにか奮闘。

最終的に城の防御に成功するのですが、この籠城戦でかなりインパクトの強い逸話が残されました。

キーワードは「蛸(タコ)」です。

 

タコに助けられ 蛸地蔵

それが

苦戦している城方のもとへ、タコに乗った白い法師が現れ、さらに海からおびただしい数のタコが援軍にやってきて勝利した――

というものです。

しかも双方に死者を出さず、後日、法師は中村一氏の夢枕に立つと、

「私は地蔵菩薩の化身である」

と名乗ったとか。

一氏はその後、戦禍を避けるためにしまいこんでいた地蔵菩薩像を祀り、民衆も拝めるように公開したといいます。

これは現代でも続いており、”護持山朝光院蛸地蔵(天性寺)”で拝めるそうで。

創作にしても限界突破しすぎというか、狙いがいまいちわからないというか……いったいこの逸話は、誰をどう持ち上げているのでしょう?

実際には大坂城の留守を守っていた黒田長政や、蜂須賀家政(小六の息子)などが援軍に来たようで、それがタコにされてしまったんですかね。

海から援軍が来た

海上の日差しで兵の顔がゆでダコのように真っ赤に焼けた

タコが大量に来たことにされた

って、まるで伝言ゲームやないか。

大げさな比喩にしても、援軍が来たならそのまま語り伝えればいいのに、謎が謎を呼びますね。

黒田長政(左)と蜂須賀家政/wikipediaより引用

ちなみに、小牧・長久手の戦いで討死した森長可の未亡人・池田せんが、後に中村一氏の妻になるのですが、タコ援軍のことは夫から聞かされたのでしょうか。

「鬼武蔵」と称された森長可と、タコに助けられた中村一氏。共通点は赤色ぐらいでしょうか……って、何の脈絡もない話でスミマセン、先へ進みましょう。

 


秀吉の関白就任に伴い従五位下

防戦に成功した中村一氏の働きは報われました。

天正十三年(1585年)7月、秀吉が関白就任を果たすと、一氏には従五位下・式部少輔の官位が与えられます。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

さらには近江と伊賀に6万石を与えられて水口岡山城(滋賀県甲賀市)の主となり、豊臣秀次付きの「年寄衆」も任されました。

この場合の年寄とは、老人ではなく、家老に近いニュアンスです。

秀次は、まだ跡継ぎとはなっていませんが、秀吉から見た一氏は、

「豊臣政権の次世代を補佐するに足る人物」

という評価になっていたのでしょう。

小牧・長久手の戦いにおいて秀次が失態を犯したため、実戦経験が豊富な一氏の補佐を期待したとも考えられます。

天正十八年(1590年)の小田原征伐では、秀次に従って小田原城の支城である山中城(静岡県三島市)攻めに加わっています。

この城は、改修が間に合わなかったことも影響してか、スンナリ落ちたため、秀次や一氏も胸をなで下ろしたことでしょう。

なんせ“障子堀”のインパクトなどは凄まじいものがあり、その眼前に立てば攻める気を削がれそうで……。

山中城跡の障子堀

山中城障子堀を別の角度から

小田原城が落ちると、同年7月には駿河で14万5000石を与えられ、駿府城主となりました。

その後は伏見城や大和多聞城の工事に携わったり、駿河にあった秀吉直轄領の代官を兼任したり、引き続き重要な仕事を任されています。

一方で、豊臣秀次の家老については、どこかのタイミングで離れていたと考えられます。

文禄四年(1595年)に秀次が自害して、残された妻子らが軒並み処刑された事件の際、一氏はいっさい問われていないのです。

むしろ一氏は、秀次に連座したとして前野長康・景定の親子を預かる立場にいました。

先に景定へ命令が下ると、その後、長康も切腹という哀しい結末を迎えています。

※長康は命令が出る前に息子の後を追ったという説も

一氏にとっては旧知の仲ですので、こんな最期を見るのは非常に辛いものだったでしょう。

 

関ヶ原には不参戦

慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、どうなったのか?

普通に考えれば西軍サイド……かと思いきや、徳川家康を中心とする東軍に加わるつもりでいたようです。

しかし、家康が上方から会津へ出陣した同年6月、中村一氏は重い病に臥せっていました。

そのため弟の中村一栄を名代として従軍させています。息子の中村一忠はまだ13歳だったので、その代理を弟に任せたのでした。

二重の代理ですので、一栄としてもプレッシャーだったでしょう。

しかし、それ以上に一氏の病がかなり重篤なものだったらしく、いざ関ヶ原の戦い(1600年10月21日/慶長5年9月15日)が始まる約2ヶ月前の、1600年8月25日(慶長5年7月17日)に亡くなっています。

関ヶ原合戦図屏風/wikipediaより引用

この日は西軍方が家康の違反行為を弾劾する『内府ちがひの条々』という手紙を諸大名に送った日でもありました。

おそらくこの手紙は、受け取った大名が後に処分したと思われるため、誰に送られていたのか不明ですが、一氏のもとへ届いていた可能性は高いでしょう。

息子の中村一忠は東軍についたことを評価され、伯耆米子で17万5000石に加増。

その後、徳川秀忠から偏諱を受けたとして「忠一」に改名し、首尾よく徳川家との接近を進めてゆきます。

忠一は慶長十四年(1609年)に20歳の若さで亡くなってしまいますが、側室の生んだ子の家系が江戸時代を通して存続、現代にも血筋が続いているとか。

生き延びることが勝利だとするならば、彼と中村家もその一員ですね。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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