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【中村一氏】
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岸和田合戦
天正十二年(1584年)5月、中村一氏は和泉・岸和田城の守備を命じられました。
だんじり祭りで有名な大阪府岸和田市にある城で、紀伊(和歌山)エリアに対する防衛拠点。
この頃の秀吉は、小牧・長久手の戦いのため同年3月から上方を留守にしており、長宗我部氏や雑賀衆など、敵対勢力に対する警戒のため中村一氏が岸和田城を守ることとなったのです。
もしもここを突破されると、大坂から多方面へ展開されてしまう、かなり重要性の高いポイント。
案の定、根来衆や雑賀衆などの連合軍3万ほどが攻め寄せてきました。
彼らは、鉄砲の名手として名高い傭兵集団です。
対する中村一氏は、松浦宗清などと共に城の防御に徹しました。

岸和田城
合計8,000程の兵で一氏は、どうにか奮闘。
最終的に城の防御に成功するのですが、この籠城戦でかなりインパクトの強い逸話が残されました。
キーワードは「蛸(タコ)」です。
タコに助けられ 蛸地蔵
それが
苦戦している城方のもとへ、タコに乗った白い法師が現れ、さらに海からおびただしい数のタコが援軍にやってきて勝利した――
というものです。
しかも双方に死者を出さず、後日、法師は中村一氏の夢枕に立つと、
「私は地蔵菩薩の化身である」
と名乗ったとか。
一氏はその後、戦禍を避けるためにしまいこんでいた地蔵菩薩像を祀り、民衆も拝めるように公開したといいます。
これは現代でも続いており、”護持山朝光院蛸地蔵(天性寺)”で拝めるそうで。
創作にしても限界突破しすぎというか、狙いがいまいちわからないというか……いったいこの逸話は、誰をどう持ち上げているのでしょう?
実際には大坂城の留守を守っていた黒田長政や、蜂須賀家政(小六の息子)などが援軍に来たようで、それがタコにされてしまったんですかね。
海から援軍が来た
↓
海上の日差しで兵の顔がゆでダコのように真っ赤に焼けた
↓
タコが大量に来たことにされた
って、まるで伝言ゲームやないか。
大げさな比喩にしても、援軍が来たならそのまま語り伝えればいいのに、謎が謎を呼びますね。

黒田長政(左)と蜂須賀家政/wikipediaより引用
ちなみに、小牧・長久手の戦いで討死した森長可の未亡人・池田せんが、後に中村一氏の妻になるのですが、タコ援軍のことは夫から聞かされたのでしょうか。
「鬼武蔵」と称された森長可と、タコに助けられた中村一氏。共通点は赤色ぐらいでしょうか……って、何の脈絡もない話でスミマセン、先へ進みましょう。
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