今回から、織田信長がいよいよ本格的な浅井・朝倉攻略に取り掛かります。
思えば長い戦いでした。
浅井長政の裏切りによって朝倉と挟撃された織田信長。
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など、ここでは記しきれない細かい戦を含めると、常に臨戦態勢でもありました。
比叡山焼き討ちは違うのでは?
というご指摘もあるかもしれませんが、もともと同山へ浅井朝倉の兵が籠もっていたことから信長も軍事拠点とみなし、攻撃をしかけたと見る方が自然かと思います。
まさに仇敵だった浅井朝倉をどう攻略するのか?
きっかけは、天正元年(1573年)8月8日にありました。
浅井方の本拠地麓にいた重臣が寝返った
キッカケは思わぬところからやってきました。
浅井方の阿閉貞征(あつじ さだゆき)が「織田方につきたい」と申し出てきたのです。
阿閉は【姉川の戦い】などでも浅井軍の一員として戦い、浅井領の要衝・山本山城(長浜市)を任されていた人。
山本山城は、浅井の本拠地・小谷城の麓からほど近いところにあり、そんな要衝を任されていたのですから、文字通りの”重臣”です。
地図で位置を確認していただければ一目瞭然かと思います。
一番右の黄色が信長の本拠地・岐阜城で、左側の赤色が小谷城、そして、そのスグそばにある紫色の拠点が山本山城です。
そんな人が自ら申し出てきたのですから、信長にとっては願ったり叶ったりというところで、この日の夜に急遽、近江へ出陣、浅井・朝倉両氏との戦いに決着をつけるため動き出します。
この辺の行動力は毎度ながら凄まじく速い。
武田信玄や上杉謙信との直接対決をせぬまま両雄が亡くなり、信長のことを運が良いという見方もありますが、神速とも言える決断力や実行力はどの大名にも負けなかったでしょう。
それこそが誰にも負けない信長の強さの秘訣と言えるかもしれません。
ただ、今回寝返った貞征の後年の動きからすると、信長に心服していたとか、信長の力を認めたというわけではなく、生き残るために主家を見限っただけのようです。
そのあたりのことはまた別の機会に触れさせていただきますね。
今更ながらにやってきた朝倉の援軍
出陣した信長は、山本山城からほど近い月ガ瀬城(東浅井郡虎姫町)を攻め、一晩のうちに開城させて足がかりとしました。
翌々日の8月10日には、織田軍が山田山(長浜市)を占拠し、小谷城と越前の間を遮断。
これに対し、さすがに危機感を強めた浅井同盟国の朝倉方が2万の兵を出してきました。
そして織田軍を囲むように、与語・木本・田部山(いずれも伊香郡木之本町)に陣取ります。
朝倉軍は、これまで散々決戦を先延ばしにしてきており、ここにきての慌てようは、完全に後手に回らされたように見えます。
しかも、大嶽山の下・焼尾の砦に配置されていた浅井方の武将・浅見対馬もまた織田方につくことになり、情勢は着実に信長に傾いていました。
浅井・朝倉両軍の連携が緊密なものであったならば、ここで追い詰められていたのは織田軍のほうだったかもしれません。
小谷城から浅井軍が、朝倉軍が外周から攻め、織田軍を挟撃することも可能でした。
一歩間違えれば壊走しかねないこの状況。
はたして信長は、いかなる策を講じたのか?
続きはまた次回。
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◆信長公記
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麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)