信玄が家康に激怒した理由

徳川家康(左)と武田信玄/wikipediaより引用

徳川家

なぜ信玄は家康に激怒し徳川領へ攻め込んだのか?北条との複雑な関係が影響

信玄はなぜ家康に怒り、戦争まで仕掛けたのか?

そんな疑問を抱いたことはないでしょうか。

例えば、2023年の大河ドラマ『どうする家康』では【三方ヶ原の戦い】が行われる直前に徳川家康織田信長が密会。

信長「信玄を怒らせるなと言っただろ」

家康「狙いはあなたですよ」

といった会話が繰り広げられ、武田軍vs織田徳川軍という図式が最初からあったかのように描かれていました。

確かに史実でも、最終的にはその構図となっていますが、そこに至るまでには武田と徳川のイザコザがあっただけではなく、今川や北条も密接に絡んでいて、全体を捉えないと理解しがたい部分があります。

順を追って見て参りしょう。

 

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甲相駿と清洲同盟

『どうする家康』の描写では、今川と徳川の関係からして簡略化されていて、今川義元今川氏真・徳川家康たちがあたかも学園漫画のように描かれました。

そうした青春コメディ路線が描写された結果、省かれてしまったのが武田・今川・北条の同盟関係です。

史実の今川家は、相模の北条家と数代にわたる姻戚関係がありました。

そして武田家も、今川家と北条家と姻戚で結ばれている。

こうした婚姻を軸に三カ国は争いと同盟を繰り返してきましたが、その一角である今川義元が敗死すると、尾張の織田が台頭。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

今川の配下であった三河の徳川も、筍のようにグイグイと伸び、織田と手を結びます。

武田と北条からすれば『今後どうしたものか……』という、重大な局面です。

構図にするとこう。

甲相駿(武田&北条&今川)

vs

織田&徳川

信玄は家康に対して唐突に怒り出したワケではなく、この時点で対立の火種は芽生えていたのです。

 


将軍義輝の存在

『どうする家康』が省略してしまった重要な描写は他にもあります。

足利義輝です。

『麒麟がくる』では向井理さんが演じ、憂いを帯びた姿が印象的であった義輝。

その横死は衝撃的でした。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用

ドラマでは、己の無力さを嘆いていた向井さんの義輝ですが、まがりなりにも将軍であり、影響力が全くなかったわけではありません。

永禄5年(1562年)には、今川氏真・武田信玄北条氏康の三者に御内書を送っています。

今川氏真と徳川家康(当時は松平元康)の停戦を促すよう命じていたのです。

もしも氏真が巻き返して駿河を保っていたら、信玄も甲相駿の既定路線を踏襲できたことでしょう。

しかしそうはなりません。

ゆえに、事態は複雑化します。

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