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【なぜ信玄は家康に激怒したか】
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なぜ、信玄は怒ったのだろうか?
今川へ侵攻し、北条との関係が破綻した武田。
問題は、共に攻め入った家康の対応です。
家康は今川氏真夫妻を滅ぼさないどころか、庇護すると勝手に北条と和睦してしまいました。

北条氏康(左)と徳川家康/wikipediaより引用
これに激怒したのが信玄です。
ハァ~? 一緒に攻めといて、お前だけ北条と和睦ってなめとんのか!
そして程なくして大きなターニングポイントがやってきます。
元亀2年(1571年)、信玄にとって鬱陶しいライバル・北条氏康が没したのです。
氏康の死により、俄然、武田軍は動きやすくなったようにも見えますが、ことはそう単純ではなく、この前年の元亀元年(1570年)、徳川は上杉と同盟を結んでいました。
おのれ徳川め……と歯ぎしりをしても、『孫子』マスターの信玄は怒りに任せて動いたりはしません。
攻め時をジッと待っていたことでしょう。
例えば『麒麟がくる』の信玄は、出番こそ少ないながら、機が熟してこそ動く慎重さが表現されていました。
劇中での信玄は重臣を集め、重々しくこう語りかけます。
「ここのところ、織田信長の動きが鈍い。公方様の足並みにも乱れがある。その公方様は、わしに上洛せよとの催促じゃ。出陣の機は熟したと思うが、どうじゃ?」
『孫子』にはこうあります。
善く戦う者は、これを勢に求めて、人に責(もと)めず。『孫子』「勢篇」
ここで信玄が問題にしているのは、信長の「動き」であり、公方様こと足利義昭側の「乱れ」です。
信長は何かに足を取られている。それは義昭だけのせいではない。複数の要素が絡み合うこの時こそ、上洛すれば得るものも大きい。

良好な関係だった足利義昭と織田信長/wikipediaより引用
このセリフでは、そんなことが凝縮して描かれました。
こうした複雑な同盟関係とその破綻をもって、武田信玄という猛虎は、いよいよ牙を剥いたのです。
信玄は家康をどう見てた?
武田信玄は、徳川家康という武将を否定的に見ていました。
ポッと出の国衆あがりで、織田信長の言いなりじゃないか……といった認識です。
信長と対峙し、上洛を果たすうえで、その途上の徳川家康を痛めつけるなど、当然のことだったのでしょう。
武田軍が浜松城へ侵攻すると、徳川軍は「どうする家康?」――と、ばかりに危機が迫り、三方ヶ原で惨敗しました。

ライトアップされた浜松城。三方ヶ原の戦いの後、徳川方の帰還兵を受け入れるため灯りをつけて開城されていたことが逆に山県昌景の警戒心を煽り、結果、家康の命は助かったと伝説がある
しかし、僥倖であったのか、必然だったのか。
信玄は程なくして病で亡くなってしまいました。
かくして救われたのが、徳川家康とその先にいた織田信長です。
跡を継いだ武田勝頼とも死闘を繰り広げますが、その詳細については以下の記事などをご覧いただければ幸いです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
平山優『徳川家康と武田信玄』(→amazon)
柴裕之『徳川家康: 境界の領主から天下人へ』(→amazon)
歴史読本『甲斐の虎 信玄と武田一族』(→amazon)
他