信長が織田家の家督を継いだとき、その支配地域が尾張の半分だったということは、戦国ファンにはお馴染みの話かもしれません。
では、徳川家康はどうでしょうか?
一般的には、最初から三河の主だったと思われがちな家康。
実際は、今川義元が討死した後に独立大名としての道を歩み始めると、混沌とした状況に陥り、三河平定までに約6年もの月日を費やしているのです。
本来なら、大河ドラマ『どうする家康』でその辺の流れをジックリ鑑賞したかったところですが、瀬名との恋愛や氏真の嫉妬などが絡んで、なんだかよくわからない状況でした。
いったい史実の徳川家康は如何にして三河平定を成し遂げたのか?

徳川家康/wikipediaより引用
その足跡を振り返ってみましょう。
※本稿ではわかりやすさを重視して「徳川家康」表記で統一させていただきます
桶狭間での予期せぬ今川大敗
徳川家康の三河平定は永禄3年(1560年)5月19日に起点があると言えるでしょう。
【桶狭間の戦い】です。

毛利新助と服部小平太が襲いかかる(作:歌川豊宣)/wikipediaより引用
当時の家康は、三河の小国主というより有力国衆として今川の傘下に与していたような状況。
ゆえに大河ドラマ『どうする家康』第1回の放送でも今川義元の命により、大高城へ兵糧を運び入れる作戦を請け負っていました。
このとき家康や三河家臣団はどんな心境だったのか?
というと2022年大河ドラマ『麒麟がくる』の方がわかりやすいかもしれません。
彼ら徳川は、表向き今川の意向に従ってはいたものの、心底望んでいるわけではない。
今川方に急かされ、不満を示して拒否する場面もありました。
むろん事細かな心情まで史料に残されているわけではありませんが、史実では、今川義元が織田信長に討たれて今川軍が総崩れになると、家康は大高城で防戦しつつ、本拠の岡崎城へ向かっています。

岡崎城
今川から離れ、三河平定へ動き出す……のではなく、この段階ではまだ反今川を旗幟鮮明にはしていません。
『どうする家康』では、三河平定に乗り出す前の見どころとして、家康の正妻・瀬名(築山殿)が今川氏真の“夜伽役”とされかけるシーンがありました。
状況的に見て、あれはかなり強引なフィクションと考えられます。
義元を失ったばかりで家自体が揺らいでいる今川家で、その重臣の娘をぞんざいに扱っていいことなど何ひとつない。
そもそもドラマでは家康と瀬名を恋愛結婚に仕立て、氏真が悔しがるようにしているところからして不可解でした。
当時の氏真は、そんな色恋沙汰にかまけている場合ではありません。
では当時の今川家はどんな状況だったのか?
煮えたぎる駿河と三河
偉大な父の死により、凡庸な息子が追い詰められてゆく――こう説明されがちな今川氏真ですが、そんな単純な話ではありません。
今川には東に同盟相手の北条がいます。
義元の母であり“女戦国大名”として名高い寿桂尼、その娘・瑞渓院(ずいけいいん)は北条氏康の正室。
瑞渓院と氏康の間に生まれた早川殿が、豪華な花嫁行列で氏真のもとに嫁いできていました。

早川殿/wikipediaより引用
ゆえに、いざとなれば北条からの援軍を得られる。
そんな同盟だったはずですが、このとき北条領へ“越後の龍”こと上杉謙信が攻め込み、今川は東からの援軍が期待できなくなっていたのです。
まさに泣きっ面に蜂ともいえる状態で、氏真は綻びゆく家臣を繋ぎ止めるため必死にもがいており、そんな苦境の中で、有力傘下の徳川家康が離反するとなれば一大事です。
近隣の諸勢力は非常に複雑かつ不安定な状態に陥り、当初は、家康がどちらに転ぶかなど読めない状況。
だからこそ永禄3年(1560年)に家康は、母方の伯父である水野信元とも戦っています。
『どうする家康』では寺島進さんが演じていた織田家傘下の武将です。
清洲同盟
結局、家康は今川に見切りをつけます。
永禄4年(1561年)、水野信元の仲介を経て織田信長と和睦を締結したのです。
俗に【清洲同盟】と呼ばれるもので、この結果を受け、家康・嫡男の松平信康と、信長の娘・五徳の婚姻が決まりました。
『どうする家康』では、信長がお市と家康の婚礼も考えていたとか、お市が家康に恋していたとか、そんなシーンもふんだんに描かれましたが、お市と家康は年齢が近いとは考えにくい。
劇的な生涯ゆえ信長の妹といえばお市――というようにスポットが当たりがちなだけで、信長には他にも複数の妹がいます。
年齢を考えれば、お市ではなく別の妹と家康の婚礼を考えたほうが自然です。
今川から見て、曖昧だった家康の意向。
決定的に敵と見なしたのは、家康が今川の支城である牛久保城を攻めてからのことでした。
この城攻めで、三河の国衆たちも選択が迫られます。
今川か?
それとも徳川(松平)か?
こうして煮え立つ三河は、後に【三河忩劇】(みかわそうげき)と呼ばれるほどの争乱を迎えます。
築山殿とその子は永禄5年(1562年)、家康側が捕らえた鵜殿一族子息との交換で、奪還されていました。
事態は好転したかに見えますが、ここで思わぬ事態が起こります。
松平一族や家臣団が反逆したのです。
三河各地にあった本願寺系の寺院との対立が契機であり、いわゆる【三河一向一揆】と呼ばれる戦いです。
『どうする家康』では、本證寺側が年貢を納めないことを家康が問題視し、米を強奪したような描写でした。視聴者には、現代社会の宗教団体と重ねたようにも見えたかもしれません。
しかし、ことはそう単純でもありません。
信仰を基にした武装勢力であり、どこの大名もこうした宗教を取り込みつつ、自勢力の基盤としていました。
そうした一揆勢力に加えて、他の松平一族や地元国衆が蜂起したため、単なる宗教団体の抵抗ではなく、三河そのものが分裂の危機にさらされたのです。
ところが、です。
反家康勢力が頼りにしていたであろう今川氏真は、自国での争い【遠州忩劇(えんしゅうそうげき)】に追われてしまい、家康を倒すための援軍が出せません。
家康は、そんな状況にも恵まれ、苦戦しながらも敵をひとつずつ攻略し、永禄7年(1564年)までにようやく一揆勢との和睦を成立させます。
和睦成立の際には、諸勢力を削ぐ条件が巧みに組み込まれ、ようやく家康は松平氏と三河を束ねる者としての地位を確固たるものとしていったのです。

イラスト・富永商太
遠州忩劇を抑えきれぬ氏真
荒れ狂う自領を抑え切った家康と、それができなかった氏真。
そんな対比がこの時代にあたります。
三河同様、駿河も荒れ狂う状態であり、氏真は家臣と国衆離反に苦しんでいました。
『どうする家康』では渡部豪太さんが扮した飯尾連龍も今川に離反した勢力となります。
ドラマでは妻の田鶴が絡んですっかりメロドラマにされていましたが、戦国時代はそこまでウェットなわけでもありません。
城を枕に散った椿姫こと田鶴伝説も、後世の創作とされています。
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史実のお田鶴の方は家康ではなく今川に殺された?どうする家康関水渚
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要するに、三河にせよ、駿河にせよ、勢力が荒れ果てて無茶苦茶であったということです。
そして戦国大名としての今川氏にとどめを刺したのは、甲斐の武田信玄でした。
上り調子である三河の松平と、荒れ果てる駿河の今川を見て、信玄は【甲駿同盟】を破棄して家康と結んだのです。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
永禄11年(1568年)末、武田勢は駿河へ侵攻。
今川氏の家臣たちが次々に離反する中、忠義を尽くす朝比奈泰朝の掛川城へ氏真は逃れます。
妻である早川殿が、乗り物も用意できぬほど追い詰められての逃避行であり、氏真が駿河から落ち延びて、今川氏は滅んだのでした。
このとき激怒したのが、早川殿の父である北条氏康です。
北条の援軍と武田が睨み合う中、氏真と早川殿は相模へ。
『どうする家康』では、家康と氏真の対決を重視し、北条はすっかり無視されていました。
そのため余計にわかりづらくなったのですが、氏真が戦国大名として滅亡する過程に、家康が独力で深く関与しているとは言えないのです。
三河忩劇を抑えた家康
織田と手を結び、一向宗とも和睦した家康は、さらなる地固めのため朝廷勢力を頼りました。
摂関家の近衛前久を頼り、工作を開始するのです。
こうした工作は、本来なら足利将軍に願い出ることが通例です。
『麒麟がくる』での織田信長は、助けを求めても満足な結果を得られない13代将軍・足利義輝に失望していました。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用
信長としては、ビシッと紛争を収めると期待していたのに無駄だった……ということがわかる描写です。
しかし、家康は足利義輝を頼ることはできませんでした。
なぜなら、その時には既に【永禄の変】で奮戦の末に殺害されていたからです。
そこで家康は、何かと話が通じる近衛前久に頼み込んだという流れになります。
『どうする家康』では、朝廷工作のシーンで出てくる公卿がいかにもアホな磨呂貴族でしたので、『麒麟がくる』の近衛前久を思い描いた方が現実に近しいのではないでしょうか。
家康はこのとき何を頼んだのか。
・徳川への改姓→このときは近衛前久を通じてのものであり、実は氏姓は「藤原姓」
・叙位および任官→従五位下三河守
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いから6年後の永禄9年(1566年)。
三河の戦国大名・徳川氏は、こうして誕生したのでした。
そして上洛へ
『どうする家康』では、ウキウキワクワク、まるで修学旅行のように上洛していた徳川家康。
しかし前述の通り、当時は将軍・足利義輝が横死するという混乱が生じており、とても旅行気分で気軽に上洛できる状況でもありません。
後継ぎ未確定のまま死した将軍職を誰が継ぐのか――。
出家していた義輝の弟(足利義昭)を還俗させ、上洛させるまでにも様々な駆け引きがありました。

足利義昭/wikipediaより引用
『どうする家康』では二日酔いの様子でゲップをしながら現れ、俗物の極みといった醜態を晒していた足利義昭(古田新太さん)。
とても見ていられないあの人物像は、室町幕府最後の将軍=愚者という結果から逆算した結果だったのでしょう。
実際の義昭は、不安定な政情のもと、そこまで愚昧な人物が担ぎ上げられない、として再評価が進んでいます。
要は、あんなバカっぽい人物ではないということです。
『麒麟がくる』は、1991年の大河ドラマ『太平記』で室町幕府の始まりを描いた池端俊策さんの作品です。
彼は当初「今度は室町幕府の終焉を描きたい」と考え、義輝と義昭兄弟を主役にする案を練っていたといいます。
結果的に主人公は明智光秀となりましたが、それでも当初の構想を活かしたのでしょう。室町幕府の将軍と家臣が大きく扱われました。
明智光秀が本能寺へ向かう動機のひとつにも、織田信長から足利義昭の殺害を命じられたことも影響しています。
要するに、この辺りは『麒麟がくる』の方が丁寧に描かれておりますので、まだ未見の方は、VOD等でご覧になられることをオススメします。
大河ドラマの風格。
最新研究の取り込み。
そうした魅力を味わい、歴史を深く味わうキッカケになるでしょう。
誠実で生真面目な人間が、なぜ、謀反人としての命運を歩まねばならないのか――現代人の心に響く誠実な歴史劇が、そこにはあります。
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【参考文献】
柴裕之『徳川家康: 境界の領主から天下人へ』(→amazon)
黒田基樹『家康の正妻築山殿』(→amazon)
黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(→amazon)
二木 謙一『徳川家康 (ちくま新書)』(→amazon)
他






