大河ドラマ『どうする家康』では、有村架純さん演じる瀬名(築山殿)と仲良し設定だからなのか。
ド派手な最期を遂げたお田鶴の方。
実は謎だらけの存在だったりします。
「お田鶴の方」という名前からして不確実であり、ドラマでは鵜殿長照の妹設定でしたが、他に「大原資良の娘では?」とか「松井宗信の娘では?」などと囁かれ、まだ出自すら確定していません。
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ただし、今川家の家臣一族に生まれたことは確かであり、フィクションにおいては想像を膨らませやすい便利なキャラともいえるでしょう。
しかし、実際はどんな事績があったのか?
本稿では、史実の面からお田鶴の方の生涯を振り返ってみましょう。
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伝説的な人物で出自も確定していない
前述の通り、生まれは不詳のお田鶴の方。
夫である飯尾連龍は、遠江国曳馬領を支配する国衆のような領主であり、今川家の重臣でした。
二人は今川家臣同士という縁から結ばれ、徳川家(松平家)の近くにあった所領が彼らの運命を強く左右します。
永禄3年(1560年)、今川義元が【桶狭間の戦い】で討死し、パワーバランスが崩れてしまったのです。
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それからの飯尾連龍は、今川と徳川に翻弄されながら、滅びの道へ落ちてしまいます。
桶狭間から3年後の永禄6年(1563年)12月、今川家から離反すると、今川氏真に曳馬城を攻められながら、持ちこたえて和睦が成立。
しかし、その後、家康につくこともできず、永禄7年(1564年)10月になって今川家に降伏します。
そして永禄8年(1565年)12月、徳川家康に通じたとして、氏真により処刑されるのです。
屋敷で襲われたともされますが、いずれにせよ岡崎と駿府の中間地点にある曳馬城は、非常に難しい立地であり、誰が領主であっても相応の被害は避けられなかったことでしょう。
そんな危険な拠点に残されたのが、妻・お田鶴の方でした。
今川と徳川のはざまに消えた
乱世の最中、夫に先立たれ、曳馬城に残されたお田鶴の方。
悲嘆に暮れているヒマなどありませんでした。
夫同様、今川と徳川の狭間で生き抜く策を講じねばならないのです。
お田鶴の方は曳馬城に立て籠もり、今川氏真に別心はないと駿府に伝える一方、家臣を徳川家康の元へ派遣したとされます。
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どちらを敵に回したって、前線の城である曳馬城が戦場になる可能性は非常に高い。
できることなら両軍に味方と思わせておいて時間を稼ぎ、ハッキリと「こちらの方が強い!」とわかる勢力へ付きたいのは言うまでもないでしょう。
問題は、この先の記録です。
実は、確実性の高い記録がなく、お田鶴の方がどう動いたか?が不明です。
ゆえに、あくまで伝承ベースとして話を進めますので、その点、ご理解いただきながらお読みいただけると幸いです。
果たして、お田鶴の方はどうなったのか?
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