国風文化とは、遣唐使が停止された10世紀以降に発達した、日本独自の文化をさします。
漢字からひらがな・カタカナが生まれて発達し、現代に至るまで併用されているように、
「中国文化を魔改造+日本オリジナルの要素」
と考えるのが妥当でしょうか。
漢文や漢詩はこの時代以降も重んじられていますし、中国文化からの脱却や切り替えというわけではないんですね。
文字・文学
平安時代は、日本語に大きく影響を与えた期間でもあります。
なぜなら、漢字から「ひらがな&カタカナ」が生まれたからです。順序としては、まずカタカナが漢字の一部から作られました。
例えば「伊」の人偏から「イ」、「宇」のウ冠から「ウ」という感じです。
これが漢文を読むときにルビのように使われるようになり、
「これ便利じゃん!」
「漢字よりこっち使えば、もっと楽に文章を残せるじゃないか!」
という点が高く評価され、カタカナが多くの場面で用いられることになります。
また、漢字の草書体(一定の法則に従って、漢字を省略する書き方)をさらに崩してできたのが「ひらがな」です。
ひらがなに曲線が多いのは、元になった草書体が比較的丸みを帯びているからなのかもしれません。
そして「漢文は男性が身につけるべき教養」であることから、男性は漢字とカタカナ、女性はそれらを学ぶことが避けられたため「ひらがな」で文章を記すようになりました。
清少納言や紫式部のように、知力と環境に恵まれた女性は漢字・漢文の知識を持っていましたが、それはごくごく例外です。
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もしかしたら、世間体を考えて隠していただけで、他にも漢文に通じた女性がいたのかもしれませんね。
その辺の建前にあまりこだわらなかったのが、平安一の権力者・藤原道長です。
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道長は自らの娘である藤原彰子と、その夫である一条天皇の仲を親密にするため、彰子を魅力ある女性に教育しようと考えました。
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そのために、歌や物語の才で知られていた女性をあっちこっちからかき集めます。
などです。
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漢文を学ぶ女性が多数派になるようなことはなかったと思われますが、和歌の技術を磨くために歌集を読んだり、歌作でも字を書きつけるといった習慣は定着しました。
もしもひらがながなかったら、女流歌人や作家の発達もなかった……かもしれません。
絵画・書道・工芸
絵画では、終末思想からくる来迎図(阿弥陀如来が死にゆく人間を迎えに来る様子を描いたもの)や、物語絵が多く作られました。
『源氏物語』で、光源氏の養女・梅壺の女御(=秋好中宮)と、頭の中将の娘・新弘徽殿の女御のどちらが冷泉帝の寵愛を受けられるか……という勝負で、物語絵を含めた絵画の勝負(絵合わせ)をするシーンがあります。
それだけ日常的に作られたり、鑑賞されたり、贈答されたりしていたのでしょう。
残念ながら、平安時代の作品は(だいたい応仁の乱のせいで)ほぼ現存していないと考えられています。万が一、発見されたら、どえらい価格がつくでしょうね。
書道の分野では、小野道風・藤原佐理・藤原行成が【三跡】と呼ばれ、別格扱いになりました。
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三”蹟”とも書きますが、日常的に使う漢字からすると、前者のほうが覚えやすく書きやすいでしょう。
同じく書道の名人を列記した【三筆】(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)と見分けるコツは(作風以外だと)時代です。
三筆のほうが前の世代で、全員9世紀の人物。そして三跡は10世紀の人物です。
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六人まとめて、一行プロフィールをつけてみましょう。
【三跡】
・小野道風 源氏物語でも褒められている作風
・藤原佐理 ひらがなの元になったとされる草書体の第一人者
・藤原行成 道風に憧れて書の道に入った人
スペースの都合で割愛しますが、どの人にも濃ゆいエピソードがありますので、気になった方は個別にお調べください。
最後に、平安時代だけでなく長きに渡って日本文化の代表例となった工芸品のお話を二つほど致しましょう。
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