平安時代に、そんな良妻賢母+キャリアウーマンを両立したような女性がいました。
赤染衛門(あかぞめえもん)です。
大河ドラマ『光る君へ』では源倫子や藤原彰子のサロンで凰稀かなめさんが先生役を演じ、いわば紫式部の先輩となりますが、実は生まれた時はなかなかハードな状況でした。
というのも彼女の両親にちょっと複雑な事情があるのです。
いったい事情とは?
そもそも赤染衛門とはどんな女性だった?
本記事で、赤染衛門の生涯を振り返ってみましょう。
※以下は「紫式部」の関連記事となります
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真の父は赤染時用か平兼盛か
当時の貴族は妻問婚(通い婚)が基本。
男性が三日続けて女性のもとへ通えば結婚が成立したと見なされ、相手が既婚女性、いわば人妻に言い寄る男性もいました。
今でいうところの歳の差婚も珍しくなく、死別や離婚を経て再婚することも珍しくありません。
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赤染衛門の母は、当初、平兼盛という人と夫婦関係でした。
兼盛は光孝天皇の血を引く皇族であり、臣籍降下で平氏となった人。歌人としても活躍しており、比較的平易で柔らかな詠みぶりの歌が多く伝わっています。
特に、百人一首にも採られた以下の歌はかなり有名ですね。
しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで
【意訳】恋をしていることを必死に隠してきたが、人に『君は恋でもしているのかい?』と問われるほど、隠しきれなくなってしまった
高貴な血筋かつ歌才にも優れた兼盛でしたが、赤染衛門の母との間に何かあったのか、二人の関係は冷え始めていたようです。
そこへ赤染時用(ときもち)という男性が登場。
この時代によくあることで、どのようにして彼が赤染衛門の母とそれなりの関係になったのかは判明していません。
しかし、赤染衛門が生まれたとき、兼盛が
「その子は私の娘ではないか?」
と問い合わせ、時用が
「私はかなり早い時期から妻と付き合っていたので、この子は私の娘です!」
と言い張り、これが公にも認められた――というのが定説ですので、少なくとも夫婦になる10ヶ月前くらいには関係があったのでしょう。
当時でも「子供は十月十日で生まれる」ことは広く知られていたでしょうから。
結果、兼盛は引き下がり、幼い赤染衛門は時用の娘として育てられることになりました。
しかし、成長した赤染衛門の歌には兼盛の血をうかがわせる才能が感じられることから、後世では「やはり、赤染衛門は兼盛の娘では?」と考える人も多くいます。
残念ながら今後も謎のままでしょう。
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母の源倫子に仕え 娘の彰子に仕え
何はともあれ、無事に成長した赤染衛門は源倫子に仕えるようになります。
大河ドラマ『光る君へ』でも、まさにその場面が注目されていましたね。
倫子をはじめとしたお姫様たちに教養を指南する役割であり、その流れから後に倫子の娘である藤原彰子にも仕え、彼女が入内するときに宮中に上がったと考えられています。
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宮仕えに出ると、実家や貴族のお屋敷でのお勤めよりも男性と知り合う機会が多くなります。
儀式や行事などで顔を合わせることがあるためです。
赤染衛門もそうだったようで、始めは大江為基(おおえのためもと)という人と恋愛関係になりました。
しかし何かのきっかけで別れたらしく、その後は為基のいとこである大江匡衡(おおえのまさひら)と関係を結び、結婚に至ります。
この夫婦は宮中でも有名なおしどり夫婦で、紫式部日記にも次のように記されているほどです。
「中宮様(彰子)や道長様は、この夫婦を”匡衡衛門”と呼んでいるほど仲がいい」
彰子の出産や公任の「若紫」エピソードなど『紫式部日記』には何が書かれている?
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その仲の良さと、赤染衛門の賢さを伝えるエピソードを見てまいりましょう。
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