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【赤染衛門】
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公任の辞表作成で夫にアドバイス
関白・藤原頼忠の息子であり、歌人としてよく知られている藤原公任。
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大河ドラマ『光る君へ』では町田啓太さんが演じるこの公任が、出世の遅さに焦れてスネてしまい、辞表を出そうとしたことがありました。
当時の辞表は文学的な面も重視されたため、公任は二人の学者に文章を依頼したのですが、気に入らない。
そこで大江匡衡にお鉢が回ってきたところ、匡衡にしても頭を悩ませてしまいます。
「既に私より優れた方の文が二度もボツになっているのに、私に公任卿を満足させられるほどのものが書けるだろうか……」
夫が何か考え込んでいることに気付いた赤染衛門。
どうしたのです?と尋ねて事の次第を聞き、こんなアドバイスを送ります。
「公任卿はご自身のお家柄をとても誇りに思っておられるようですから、そのことを重視して書いてはいかがですか?」
匡衡も「それだ!」と合点して辞表を作成したところ、首尾よく公任も満足した、という話です。
しかしこのままですと、大江匡衡の印象があまり良くないかもしれませんので、彼の賢さを伝えるお話も少し触れておきましょう。
紫式部にとって理想の先輩か
あるとき藤原彰子の御帳台の中で「犬の子が生まれる」という珍事がありました。
通常、人でも犬でも出産は穢れと見なされ、宮中では忌まれます。
それが后妃の御帳台となれば、さらに大事となったでしょう。
そこで学者の意見が求められ、匡衡が答えました。
「これは吉兆でございます。”犬”という字の点を上につければ”天”、下につければ”太”となります。
いずれもその下に”子”をつければ”天子”と”太子”になります。
今後、彰子様に皇太子となる方がお生まれになり、その方が天子となられるでしょう」
と予言しました。
そして彰子は寛弘六年(1008年)に敦成親王(のちの後一条天皇)を産み、翌年にも敦良親王(のちの後朱雀天皇)に恵まれます。
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匡衡の予言が的中したわけです。
いずれも単に子供ができただけの話ですし、そもそも鎌倉時代に成立した『十訓抄』という説話集に載っている話で、リアルタイムの記録ではありません。
それでも夫婦の賢さや仲の良さは確かだったのでしょう。
同時期に彰子へ仕えていた紫式部からしても、赤染衛門は「理想の先輩」というようなイメージの人に見えていたようで、以下のようにほぼ手放しで褒めています。
「身分が高い訳ではないが、歌はいかにも本格派で、自分の歌才をひけらかしたり読み散らしたりはしない」
「耳にした範囲では、ちょっとした機会に詠んだものも頭の下がるような詠みぶりだ」
紫式部は自らの漢才を表に出さないようにして、周りとの軋轢を回避しようとしていた節がありますので、何事も卒なくこなしていた赤染衛門が眩しく見えたのかもしれません。
直接のやり取りは伝わっていないのが残念ですが、赤染衛門が何事も颯爽としているのは「兼盛の娘説」があることも影響していそうです。
もしも事実であれば、赤染衛門は皇族の血を引いている――藤原北家の傍流で父の身分もイマイチな紫式部からすると、かなりの身分差となります。
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他の日記の記述からしても、紫式部は彰子の周りにいる身分の高い女房にはあまり近づかなかったようですし。
日記で「身分が高い訳ではないが」とわざわざ書いているのは、当時の女房の生活では手紙や日記を勝手に読まれることがあるためではないでしょうか。
もし、兼盛の娘説を信じているようなそぶりを見せた場合、紫式部にとっても赤染衛門にとっても好ましくない受け取られ方や悪い噂を立てられかねませんので。
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