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【赤染衛門】
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子孫に大江広元
赤染衛門は、夫との間で子宝にも恵まれました。
息子の一人、匡衡の跡を継いだ大江挙周(たかちか)の子孫が、後に鎌倉幕府創設の功労者となる大江広元です。
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そうなると毛利元就、後の長州藩へと繋がっていくわけですね。歴史の流れが見えると、いろいろな時代に興味を持つキッカケとなり、面白いですね。
そこで一つ、赤染衛門と息子のエピソードを見ておきましょう。
あるとき、大江挙周が重い病になり、赤染衛門はたいそう心配しました。
すると「挙周の病は住吉大社の祟りではないか?」という噂が聞こえてきます。
赤染衛門が息子の病を治すため、住吉大社に歌を奉納しました。
◆ 代わらむと 祈る命は をしからで さてもわかれん ことぞ悲しき
【意訳】息子の身代わりになれるのならば、命は惜しくありません。しかし、息子が死んで別れてしまうことはとても悲しいのです」
すると、あら不思議、挙周の病が治った……という話です。
住吉大社は禊祓(みそぎはらえ)の神、海上安全の神、農耕・産業の神、和歌の神、弓の神、相撲の神などさまざまな形で、現代でも信仰を集めています。
挙周はいったい何をして神様のお怒りを買ったのか。
いや、赤染衛門の歌を見せたかっただけでは?というツッコミもありますね。
ならば、赤染衛門の歌を他にも2つほど見ておきましょう。個人的趣味なチョイスですみません。
まずは百人一首にも採られているこちらから。
やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな
【意訳】あなたが来てくださると思って寝ずに待っていたのに、すっかり夜も更けて月が傾くのを見てしまいました。こんなことならさっさと寝てしまえばよかった
赤染衛門の最も有名な歌と言っても過言ではないでしょう。
藤原道隆が彼女の姉妹に通っていた頃に代作したものだそうです。
道隆が「今夜行くよ」という知らせを赤染衛門の姉妹によこしていたにもかかわらず、その日は来なかったので、その気持ちを歌にまとめてあげたのでした。
ちょっと恨めしげな雰囲気もありつつ、ねちっこくはない感じで、道隆も「可愛いヤツめ」と思ったかもしれませんね。
『光る君へ』では井浦新さんが演じていますが、さすがにここまではドラマで注目されないでしょうか。
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もう一首はこちら。
君とこそ 春来ることも 待たれしか 梅も桜も たれとかは見む
【意訳】あなたと一緒だったから春の訪れも楽しみにできたのに、これから誰と梅や桜を見れば良いのでしょう
長和元年(1012年)に夫と死別しており、その翌年の春に詠んだ歌です。
赤染衛門の悲しみとともに、本当に夫婦仲が良かったことが伝わってきます。
年齢不詳なれどかなりの長寿だった
夫の死後、赤染衛門は出家したようです。
ただし、依然として社交は続けていたようで、
長元六年(1033年)倫子の七十賀屏風歌
長元八年(1035年)賀陽院水閣歌合(かやのいんすいかくうたあわせ)
長久二年(1041年)弘徽殿女御十番歌合
など、歌に関する会合にたびたび出席しています。
まず気になるのは真ん中の「賀陽院水閣歌合」でしょうか。
字面からして仰々しいですが、当時の関白・藤原頼通が主催した歌合(歌の対決会)で、臣下の催した歌合としては最も盛大なものだったとされます。
「長元八年関白左大臣頼通歌合」とか「三十講後歌合」とも呼ばれたりしますね。
会場が彼の屋敷である高陽院の水閣(釣殿)だったため、「賀陽院水閣歌合」となりました。
参加者も錚々たるもので、赤染衛門以外のメンバーはざっと以下の通り。
・藤原頼宗(藤原道長の次男)
・藤原定頼(藤原公任の長男)
・大中臣輔親
・大江公資
・能因法師
・相摸
道長の息子たちや百人一首でお馴染みの歌人が揃っていました。
当時ここでは法華三十講が行われていて、仏様に奉納するという狙いの催しでした。
弘徽殿女御十番歌合は、道長の孫にあたる藤原生子が主催したものです。
生子の母は公任の娘でしたので、ここでも間接的に公任との縁が感じられますね。
残念ながら、公任は長久二年の初めに亡くなっているため、この歌合には参加できませんでしたが……。
赤染衛門本人の生没年は不詳です。
推測では80代で亡くなったのではないかとされています。
主人である源倫子は90歳、彰子は87歳なので、それにあやかったかのような長寿っぷりですよね。
また、赤染衛門はその長寿と文才から『栄花物語』の作者とも想定されています。
宇多天皇の時代から藤原摂関家の流れを描いたものですので、長期間にわたって倫子や彰子に仕えていた赤染衛門が作者と考えられるのも自然なこと。
『栄花物語』では彰子のことをその美貌と住まいから「かがやく藤壺」と称えており、『源氏物語』との関係も気になるところです。
大河ドラマ『光る君へ』では、最終回まで登場しても不思議ではない――それぐらい存在感のある女性ではないでしょうか。
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【参考】
国史大辞典
『これで読破! 十訓抄 中巻』
ほか





