藤原義懐

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

藤原義懐はなぜ花山天皇と共に出家へ追い込まれた? 何か策は無かったのか?

典型的な腰ぎんちゃくタイプと申しましょうか。

大河ドラマ『光る君へ』で花山天皇に取り立てられ、急に威張り始めた貴族がいましたよね。

高橋光臣さん扮する藤原義懐(よしちか)です。

この義懐、花山天皇の叔父にあたる人物で、史実でも重用されています。

しかし、その一方でライバルの藤原兼家を焦らせ怒らせたのも確かで、ドラマでは「義懐ごときが!」と周囲から小馬鹿にされているような存在。

調子に乗りすぎた挙げ句、兼家と道兼に隙を突かれ、急激な転落&失脚に追い込まれてしまうのです。

なぜ義懐たちはそんな憂き目に遭ってしまったのか。

事前に防御できなかったのだろうか?

藤原義懐の生涯を振り返ってみましょう。

 

叔父が兄の子である甥を追いやる時代

藤原義懐はどんな人物だったのか?

彼の生涯を振り返るには、その父を避けては通れません。

というのも義懐の父とは藤原伊尹(これただ/これまさ)のことであり、藤原兼家の長兄にあたるのです。

【長男】藤原伊尹(義懐の父)

【二男】藤原兼通

【三男】藤原兼家(道長の父)

※父は藤原師輔(もろすけ)

藤原伊尹・兼通・兼家の三兄弟には、兄弟間の関係で特徴がありました。

長男の伊尹と三男の兼家が結託し、二男の兼通を疎んじる政争を繰り広げていたのです。

そして長男の伊尹が没すると、今度は二男の兼通と三男・兼家の間で泥沼の政争が継続され、程なくして兼通が亡くなると、今度は兼家が権勢を狙う時代が訪れた。

これぞまさに大河ドラマ『光る君へ』の始まりというシーンですね。

ドラマでも描かれているように、権力欲旺盛な兼家は、かつて協力した兄の子を大事にすることはなく、どうにかして引きずり降ろそうとします。

このような状態は、近隣の儒教国家からすれば野蛮な事態と思われてもおかしくありません。

兄弟同士が代々争えば、潰し合い、結果的にマイナスとなる可能性もある。

そんな不利益が生じないよう、兄の子である甥が、叔父よりも重視されて家を継ぐことが定着してゆくのです。

他の大河ドラマで例を見てみますと、『麒麟がくる』では、明智光秀の叔父・明智光安が家督を継ぎながら、自身はあくまで中継ぎであることを認識していました。

そのため明智一族が危機に瀕すると、自ら城を枕に討死を遂げ、光秀らを逃したのです。

昨年の大河ドラマ『どうする家康』では、本多忠真が、討死した兄に代わって甥の本多忠勝を養育しました。

戦国時代ともなれば、こうした叔父は兄の子に家を譲る。

そうしなければ非難を浴びかねない状況だったのです。

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ちなみに中国の明朝では【靖難の変(せいなんのへん)】、朝鮮王朝では【癸酉靖難(きゆうせいなん)】という、叔父が甥を追いやる事件が起きています。

いずれも事件名に「難を靖(やす)んじる」という語句が入っている。

甥が即位したままであると、奸臣が政治を乱し、国難であるという理屈をつけて、非道行為が正当化された事件名といえるのです。

わざわざそう断らねばならないほど非道であり、この事件は反発して死を選ぶ臣下が多かったことも特徴。

こうした人々が忠臣として崇敬されることからも、叔父が甥を追いやる非道のほどが伝わってきます。

藤原兼家はどうか?

協力しあっていた兄の息子(甥)である義懐を排除する状況は、後世からすれば酷い話です。

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このころの貴族は教養として儒教教典を読んではいても、実践されていなかったこともわかりますね。

『光る君へ』では兼家と道長父子の間で、こんな問答もありました。

「やる気を出せ!」と叱咤激励する兼家に対し、「三男だから」と返す道長。

すると兼家が「わしも三男だ!」とさらに言い返す。

彼らの脳裏には儒教道徳などなく、えげつない競争倫理を生きていることが凝縮された問答と言える。

こうした状況を踏まえ、あらためて藤原義懐の生涯を振り返ってみましょう。

 

義懐vs兼家 甥と叔父の置かれた状況

藤原伊尹の五男である藤原義懐は天徳元年(957年)生まれ。

円融天皇時代の天禄3年(972年)正月、従五位下に叙爵するなど、ここまでは順調でした。

しかし、同年11月に摂政を務める父の伊尹が急死すると、叔父である藤原兼通と藤原兼家が争う時代を迎えます。

このとき義懐の兄弟たちはどうしていたのか?

というと、父の死から2年後の天延2年(974年)、兄の藤原挙賢と藤原義孝が同日に病死しています。

疫病でも患っていたのでしょうか。

国の頂点にいる貴族階級であっても、病にはなす術はありませんし、この時代の貴族は後ろ盾を失えば零落してしまいます。

義懐の兄弟たちは、叔父(兼家)やその子(道隆・道兼・道長)たちの出世を見ながら、耐え忍ぶ日々が続いていました。

一縷の望みはありました。

義懐の姉である藤原懐子(かいし/ちかこ)は冷泉天皇に入内していて、師貞親王を出産します。

彼こそが円融天皇の東宮(皇太子)であり後に花山天皇となる人物。

そして永観2年(984年)8月27日、ついに“その時”は到来しました。

花山天皇が即位したのです。

すでに従四位上に叙せられていた義懐は、即位後、蔵人頭に抜擢され、新しい政治を動かすための中心人物となりました。

それに従い官位も出世して参ります。

同年10月に正三位になると、翌寛和元年(985年)には従二位・権中納言となり、一気に駆け上がりました。

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周囲の古株たちは、当然許せません。

パッとしなかったくせに、あいつは一体なんなんだ!

大河ドラマ『光る君へ』でも、藤原兼家や源雅信、あるいは普段は大人しい藤原頼忠までもが声をあげて彼らの治世を批判していましたね。

それは史実でも同じことでした。

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