藤原公任

藤原公任(月岡芳年『月百姿』)/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

藤原公任はモテモテの貴公子だった?道長のライバルが歩んだ道

2024/12/31

長久2年1月1日(1041年2月4日)は藤原公任の命日です。

大河ドラマ『光る君へ』では町田啓太さんがイケメンの貴公子を演じ、出世争いでは道長に完敗しながら、それを支えていく姿が描かれましたね。

史実では、道長の命日が万寿4年12月4日(1028年1月3日)に亡くなっていますので、公任それから約13年も長生きしたわけです。

ドラマではモテモテの貴公子だった藤原公任。実際はどうだったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

藤原公任(月岡芳年『月百姿』)/wikipediaより引用

 


藤原北家小野宮流 父の頼忠は関白

藤原公任は康保三年(966年)生まれ。

藤原道長と同年であり、二人とも藤原北家に属する家柄で、若い頃は公任のほうが上の立場でした。

公任の家は”小野宮流”で道長の家は”九条流”と呼ばれます。

父の藤原頼忠は関白太政大臣で、母親は醍醐天皇の孫・厳子であり、母方から皇族の血を引きつつ、父は人臣最高の位にあるという、これ以上ないほどの環境に生まれています。

ちなみに『光る君へ』の劇中でロバート秋山さん演じる藤原実資は従兄弟であり、文化的才能に恵まれた一族と言えるでしょう。

藤原実資/wikipediaより引用

若い公任にかける周囲の期待も並々ならぬものでした。

なにしろ関白の嫡子ですから、元服も人並み以上。

天元三年(980年)に内裏の清涼殿で、しかも円融天皇出御の上で実施されています。

新成人に初めて冠を被せる「加冠役が円融天皇だった」という説もあるほどで、最初から正五位下の位も貰い、シード権を得たかのような社会デビューとなったのです。

その後も従四位下・従四位上と順に出世して、さらに姉の藤原遵子が天元五年(982年)に円融天皇の皇后となります。

姉の立后後、初めての参内に付き添った公任は鼻高々。

道中で藤原兼家の屋敷である東三条殿の前を通るとき、

「こちらの女御はいつ后に立たれるのですか?」

と言ってしまったとか。

道長の父である兼家は、このころ娘の藤原詮子を円融天皇の女御として入内させていました。

詮子は円融天皇の第一皇子・懐仁親王(後の一条天皇)を生んではいたのですが、立后においては遵子に敗北したのですね。

つまり公任は、完全勝者の側からとんでもないイヤミを吐いてしまったわけです。

当然、兼家サイドの人々からは深く恨まれるようになります。

当時公任は16歳ですので、後世の我々からすると「彼ほどの人物でも若気の至りがあったのだ」と考えることもできますが……言われた側は、そんなふうには思えないですよね。

皇子に恵まれている分、詮子のほうが将来的には有利でしたので、そのへんが大事にならなかった一因なのかもしれません。

 


花山天皇の出家

晴れて皇后の弟となった藤原公任。

当然、出世も早く、永観元年(983年)には左近衛権中将、寛和元年(985年)には正四位下と、まさに上り調子で出世して参ります。

ゆくゆくは自身の娘も入内させて……と考えていたことでしょう。

しかし、にわかに暗雲が立ち込めます。

寛和二年(986年)、花山天皇が突如出家し、代わって一条天皇が即位したのです。

藤原兼家の息子である藤原道兼が花山天皇をそそのかし、政権が入れ替わる、俗に【寛和の変】と呼ばれる政変になり、公任の父・藤原頼忠も関白を辞任することになりました。

道兼によって出家に追い込まれた花山天皇を描いた月岡芳年「花山寺の月」/wikipediaより引用

そして、幼い一条天皇を支えるため、藤原兼家が摂政に就きます。

さらには、一条天皇の生母として藤原詮子が皇太后となると、公任の姉・藤原遵子と力関係が逆転し、わずか数年で立場が入れ替わるようになってしまいました。

同年7月、朝臣として詮子の参内に供奉していたとき、進内侍という女房に公任はこう言われてしまいます。

「姉君の素腹の后はお元気ですか?」

“素腹”というのは“子供を生んでいない”ことを意味します。

「石女(うまずめ)」とほぼ同義で、とんでもない言い草ですが、4年前の公任の発言がそれだけ恨まれていたということですよね。

その結果、『大鏡』では以下のように評されています。

公任は人柄が優れていたので、

『以前の自分の発言が悪かったのだから、ここまで言われても仕方ない』

と思い、事を荒立てなかった。

そのため、進内侍のほうが株を下げた。

今も昔も、敗者を追い込むような真似をすると格好悪いと判断されるのは同じなんですね。

まぁ、元々は、公任が相手を追い込んでいたので、どっこいどっこいではあるのですが……。

 

円融上皇の大井川遊覧で才覚を披露

藤原公任は、ライバルである藤原道長と共に、同年の内裏で行われた歌合に参加したりするなど、顔を合わせる機会は増えていったことでしょう。

かつて兼家が、道長や公任たちについて、こんなことを話したという逸話があります。

自分の息子たちと公任の出世ぶりを比べて、兼家はこう悔しがった。

「お前たちは公任殿の影を踏むことすらできないだろう」

すると道長が負けん気強くこうこう答えたという。

「影と言わず、顔を踏んでやりましょう」

元々同い歳ですし、かなり意識しあっていたのでしょう。

大河ドラマ『光る君へ』の道長は強気一辺倒でもなく、かなり柔軟な性格をしていましたので、このエピソードは挿入されませんでしたね。藤原兼家はこのエピソードに近い性格でしたが。

藤原兼家/wikipediaより引用

なお、永延元年(987年)には道長も一気に従三位まで昇進するため、公任は追い越されてしまいます。

出世は実家の力が大きく影響するものであり、むろん公任の才覚までもが枯れてしまったわけではありません。

時系列が前後しますが、寛和2年(986年)10月に行われた円融上皇の大井川遊覧でも、多才ぶりを発揮しています。

このときは大井川に三艘の船を浮かべて、それぞれに漢詩・和歌・管弦が得意な者たちを乗せ、芸を披露するという遊びが行われました。

公任は、源相方と共に全ての船に乗ることを許されたとか。

『大鏡』では、主催者が道長となっており、道長が公任に「どの船に乗られますか?」と尋ねたところ、「では和歌の船に」と答えたようです。

そして次の詩を呼んで称賛されます。

小倉山 嵐の風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき

【意訳】小倉山や嵐山から吹き下ろしている風が寒いので、訪れる人は皆、紅葉の錦を着ている

しかし公任は、こう悔やんだとされています。

「漢詩の船でこれくらいの詩を詠んでいれば、もっと名が上がったはずなのに惜しいことをした」

この話がまるっと事実かどうかは不明ですが、公任の才覚と共に「ちょっと、うっかりすることがある」性格を伝えているのかもしれませんね。

 


道兼と急接近するも

父親と姉による出世レースの敗北により、すっかり厳しい状況に追い込まれてしまった藤原公任。

永延三年(989年)、蔵人頭に任じられると、正暦三年(992年)で参議になるまで伸び悩みました。

藤原南家の藤原懐忠(かねただ)や、同じ藤原北家でも公任より年少の藤原道頼・伊周兄弟に追い越される――非常に面白くない状況です。

すっかりモチベーションを失ってしまい、正暦四年(993年)には一条天皇の大原野神社行幸をサボるという有様でした。

当然これは天皇からのお咎めがあり、参内を止められてしまいます。

関白は道長の長兄・藤原道隆。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用

彼の息子が前述の藤原道頼・藤原伊周兄弟ですから、公任からすれば一家まるごと目の上のたんこぶのようなものです。

ただしそれは道隆の弟ですらも、同じように感じていたのでしょう。

人間、敵味方がハッキリしていると、「敵の敵は味方」という理屈で親しくなりやすい……。

結果、藤原道兼と藤原公任は親密になり、正暦五年(994年)に公任は道兼の養女(村上天皇の皇子・昭平親王の娘)と結婚し、姻戚関係まで結んでいます。

ドラマをご覧になられているから方すれば、いかにも不穏な二人ですよね。

しかし、事は意外な方向へ進みます。

長徳元年(995年)に都ではしかが大流行すると、公家の人々にも病が広がり、関白・道隆も日頃の酒が過ぎて死去。

弟である道兼が関白になりましたが、彼も数日で病で亡くなってしまうのです。

そのため「七日関白」などと揶揄されますが、いずれにせよ次の関白は道隆の子である藤原伊周か、道隆の末弟である藤原道長か、という二択になりました。

 

権力闘争で道長が頂点に立つ

皇太后の藤原詮子が弟である藤原道長を推したこと。

長徳二年(996年)に藤原伊周が花山法皇へ誤って矢を射掛けてしまった【長徳の変】が起きたこと。

こうした一連の出来事から、結局、身内による権力争いは道長の勝利に終わります。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

藤原公任はその間、出世争いでこそ不遇な立場になりながら、文化的才覚については輝きを失ってはおらず、長徳年間(996年~999年)頃には私撰和歌集『拾遺抄』をまとめ上げています。

花山法皇が将来、勅撰和歌集を編纂する際の目安として作らせたものだとされています。

つまり、【長徳の変】というトラブルがあっても、その覚えは変わらずめでたかったんですね。

まぁ、和歌の大家とされる人々が世を去ったり、地方に下ったりして、他に適切な人材がいなかったため……とも指摘されますが、いずれにせよ公任は運のいい人とも言えそうです。

ちなみに花山法皇がこの後作らせる勅撰和歌集は『拾遺和歌集』であり、いかにも関係がありそうなタイトルですね。

この件でモチベーションが上がったのか、仕事でも功績を残しています。

長徳二年(996年)、公任は検非違使別当という官職に任じられました。

検非違使とは都の警察であり、別当は長官を指し、そこで公任は、犯罪者の刑期を書類に明記するよう命じたのです。

実はそれまで、罪に応じて刑期が定められてはいたものの、罪人には知らされていませんでした。

つまり釈放されるまで「いつ刑が終わるのか」が全く知らなかったわけで……。

不公平だと感じた公任が指摘し、改められたのです。

 

斉信に追い抜かれて出仕を辞める

長徳5年(999年)になると、藤原公任の位が久しぶりに上がり、従三位となりました。

しかし、喜んでばかりもいられません。

これ以上の出世を望むのなら、兼家たちの一派である「九条流」への接近が避けられない。

だからでしょうか、道長邸の改築祝いに参加して漢詩を詠んだり、道長の紅葉狩りに随行して和歌を詠んだり、その苦労の跡が浮かび上がってきます。

なお、紅葉狩りの和歌は百人一首にも採られています。

滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ

【意訳】この滝は涸れて久しいが、その名は今も流れ聞こえている

上記の一首については「他にもっといい歌があるのに、なぜ藤原定家はこの歌を選んだのか」と突っ込まれたりもしています。

もしかすると定家は、道長に接近した頃に詠んだという点を重視したのかもしれません。

余談ですが「百人一首には暗号が隠されており、この歌もその一端で入れられたものである」とする見方もあります。

正解は定家の胸中にしかないでしょうし、永遠の謎になりそうですけれども、あったら面白いぐらいに考えておいた方が良いでしょうね。

また、この年は道長の長女・藤原彰子の入内もありました。

公任は屏風歌を詠進していて、これらの活動が実を結んだのか、長保三年(1001年)には中納言、ついで正三位を得ています。

しかし、長保6年(1004年)には公任の1歳年下である藤原斉信が従二位になり、またも追い越された形になります。

菊池容斎画『前賢故実』藤原斉信/wikipediaより引用

大河ドラマ『光る君へ』の中で、二人が官位について言い争いをしているのは、こうした出世競争が実際にあったからなのでしょうね。

追い越された公任は、出仕をやめてしまい、同年の末に中納言と左衛門督の辞表を提出しています。

ちなみに、この辞表を作ったのは大江匡衡(まさひら)・赤染衛門夫妻です。

公任は別の文人に依頼していたのですが、その出来に納得できず、匡衡にお鉢が回ってきたのでした。

匡衡も頭を悩ませ、赤染衛門が知恵を貸しつつようやく完成したそうで、彼らはおしどり夫婦で有名でしたから、公任もそれを見越して依頼したのかもしれません。

ただし、辞表は本気で辞めたくて出したものではなく、寛弘二年(1005年)に皇太后宮大夫の職や従二位が与えられると、公任は再び参内するようになりました。

もう一つの蛇足ですが、大江匡衡は『鎌倉殿の13人』で文官として活躍した大江広元のご先祖様になります。

歴史の繋がりを感じさせてくれますね。

 

「この辺りに若紫はおられませんか?」

寛弘二年(1005年)、官職に復帰した藤原公任は、同年の末頃から道長邸をよく訪れるようになり、親密になっていきます。

同じ頃、勅撰和歌集『拾遺和歌集』が編纂され、公任の歌は15首採用。

並み居る歌人の中で最多の採用数であり、彼の存在感はさらに増していました。

出世もして、歌壇でも認められ、再び順風満帆になってくると、久々にちょいと口が軽くなり、再びやらかしエピソードが出てきます。

寛弘五年(1008年)11月1日のこと。

道長の娘・藤原彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を産み、宿下がり先の道長邸で祝いの宴が開かれました。

この日は、多くの公家が道長邸へお祝いにやってきており、公任もその一人。

ほろ酔い以上の上機嫌になった公任が、彰子に仕えている女房たちのいるあたりへやってきて

「この辺りに、若紫はおられませんか?」

と声をかけたのだそうです。

画像はイメージです(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)

”若紫”とは、源氏物語のヒロイン・紫の上が初登場する巻の名前です。

つまり公任は、紫式部がそのあたりにいることを察していて、わざわざ

「あなたの書いた源氏物語を読みましたよ、気に入りましたよ」

と匂わせるような発言をしたわけですね。

ただ単に酔って悪ふざけをしただけとも取れますが、これを聞いた紫式部は

『光源氏がいないのに、紫の上がいるわけないじゃない』

として完全にスルーしたようです。

作中、紫の上は母を亡くして母方の祖母に引き取られ、都から少々離れた場所にいました。

そこへ、たまたま病気療養中で郊外へ行っていた光源氏が通りかかり、初恋の相手である藤壺の宮の血縁と知ります。

そしてしばらくして母方の祖母が亡くなり、後ろ盾がいなくなってしまった紫の上を、光源氏は半ば以上強引に引き取って自分の屋敷へ連れてきた……という経緯があります。

ですので「光源氏がいなければ紫の上が都にいるわけがない」というわけです。

彼らほどの美しく賢い人がそうそういるわけがない、という意味もあるかもしれませんね。

この話は公任のちょっとカッコ悪い話でもありますが、同時に寛弘五年(1008年)時点で『源氏物語』がある程度広まっていたことを意味するエピソードとして、後世の人々も着目。

出典が『紫式部日記』のため信憑性も高く、「本文以外で源氏物語に触れられた最初の記述である」ともされています。

 

娘が道長の息子・教通に嫁ぐ

藤和公任は寛弘六年(1009年)に権大納言まで昇進します。

位については、他の公家に先を越されることもありながら、かつてのように参内をやめることもなく、きちんと仕事を続けたようです。

寛弘九年(1012年)には、公任の娘が道長の息子・藤原教通に嫁ぎ、両者は縁戚関係となりました。

よほど嬉しかったのか。公任は従兄弟の藤原実資に婚儀のことを延々と語り、その上で実資から“娘の婚礼衣装を贈ってもらう”といった「おいおい……」な言動をしています。

引き出物として贈られたのは『和漢朗詠集』でした。

公任が選んだ漢詩・漢文・和歌を集めた本で、清書は三蹟の一人・藤原行成が行っていますし、紙も選び抜いていたようですので、引き出物にふさわしい見た目にも美しい本だったようです。

公任の娘に対する愛情がうかがえますね。

この後は

◆長和元年(1012年)太皇太后宮大夫・正二位

◆治安元年(1021年)按察使

と順調に昇進していきますが、そのさき大納言や大臣になることは難しくなっていました。

身内の不幸も続きます。

治安三年(1023年)に藤原遵子(じゅんし/のぶこ)の養女となっていた次女を、治安四年(1024年)には藤原教通へ嫁いでいた長女を亡くしてしまうのです。

ただでさえ、子供に先立たれる親の悲しみは深いもの。

彼女たちが将来産む子供(孫)たちにも期待をかけていたでしょうから、その心理的ダメージは計り知れません。

公任は出仕をしなくなり、権大納言の官職を辞任し、出家を志しました。

そして万寿三年(1026年)正月、弟・最円もいた解脱寺(左京区岩倉長谷)で仏門に入るのです。

 

出家して山荘で暮らす

解脱寺は道長の姉・藤原詮子が建立したお寺です。

出家後の公任は、解脱寺から北に少し離れた場所に山荘を作り、静かに暮らしました。

道長から和歌と法衣が贈られたとも伝わります。

他ならぬ道長も寛仁三年(1019年)に出家して、万寿二年(1025年)には末娘の藤原嬉子を亡くしていましたので、公任の心境はよくわかったことでしょう。

同じく娘を亡くしていた藤原斉信も公任の山荘を訪れ、その悲しみや出家の決心がつかないことを語り、公任も慰めながら泣いたとか。

『光る君へ』の終盤で四納言と共に道長が酒を酌み交わしながら語らうシーンがありましたね。

”平安貴族”というとなんとなく余裕があるというか、ゆったりして落ち着いたイメージをお持ちの方も多いかと思いますが、彼らも人間であり人の親なんですよね。

また、藤原教通や息子の藤原定頼も公任の山荘を訪れました。

様々な人の訪問を受けて、少しずつ悲しみが癒えたのか、公任は文化的な活動を再開。

定頼から贈られた和歌の書付から、まだ無名だった藤原範永の歌を見出して褒め称え、それを知った範永が書付を譲り受けた……という話が伝えられています。

その歌は

住む人も なき山里の 秋の夜は 月の光も さびしかりけり

という、実にシンプルなものでした。

技巧的というよりは直感的な感じのする歌で、公任がどのあたりを気に入ったのかはよくわかりませんが……当時の境遇にピタリと寄り添われたように感じたのかもしれません。

このシンプルさは、公任の「滝の音は~」にも通じるものがあるような気もします。

範永は藤原北家の長良流という系統の人で、比較的血筋の近い人物としては、藤原道綱母がいます。

彼はこの後、歌人としてよく知られた立場になり、歌合によく登場します。その第一歩が公任に認められたことだったのかもしれませんね。

余談ですが、範永の妻は和泉式部の娘・小式部内侍です。

公任の息子・定頼が彼女をからかって歌でやり返された……なんて話もあります。

公任の口が滑りやすいところが似てしまったのでしょうかねぇ。

公任はその後、長久元年(1040年)の末に病みつき、翌長久2年1月1日(1041年2月4日)に亡くなりました。

享年76。

公任について一行でまとめると、

「文化的才能に優れつつ、ちょっと口が軽くて感情豊かで愉快な人物」

といった感じでしょうか。

ときにはイラつかされることもあれど、才能は確かで憎めない……そんな人物だったのではないかと思われます。

大河ドラマ『光る君へ』でも、まさにそう描かれましたね。


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【参考】
『国史大辞典』
三石由起子『これで読破! 十訓抄 上巻』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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