顔よし、オツムよし、生まれよし――大河ドラマ『光る君へ』でモテモテ路線を一直線に歩んできた貴公子藤原公任。
歳を取ってもいささかチャラくて、「五十日の祝い」では女房たちをからかって、逆に式部に恥をかかされるエピソードが話題になりましたが、史実の藤原公任はどうだったのか?
というと、これがドラマと重なり合うから不思議です。
道長とは長く付き合うことになった公任とは一体どんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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藤原北家小野宮流 父の頼忠は関白
藤原公任は康保三年(966年)生まれ。
藤原道長と同年であり、二人とも藤原北家に属する家柄で、若い頃は公任のほうが上の立場でした。
公任の家は”小野宮流”で道長の家は”九条流”と呼ばれます。
父の藤原頼忠は関白太政大臣で、母親は醍醐天皇の孫・厳子であり、母方から皇族の血を引きつつ、父は人臣最高の位にあるという、これ以上ないほどの環境に生まれています。
ちなみに『光る君へ』の劇中でロバート秋山さん演じる藤原実資は従兄弟であり、文化的才能に恵まれた一族と言えるでしょう。
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若い公任にかける周囲の期待も並々ならぬものでした。
なにしろ関白の嫡子ですから、元服も人並み以上。
天元三年(980年)に内裏の清涼殿で、しかも円融天皇出御の上で実施されています。
新成人に初めて冠を被せる「加冠役が円融天皇だった」という説もあるほどで、最初から正五位下の位も貰い、シード権を得たかのような社会デビューとなったのです。
その後も従四位下・従四位上と順に出世して、さらに姉の藤原遵子が天元五年(982年)に円融天皇の皇后となります。
姉の立后後、初めての参内に付き添った公任は鼻高々。
道中で藤原兼家の屋敷である東三条殿の前を通るとき、
「こちらの女御はいつ后に立たれるのですか?」
と言ってしまったとか。
道長の父である兼家は、このころ娘の藤原詮子を円融天皇の女御として入内させていました。
詮子は円融天皇の第一皇子・懐仁親王(後の一条天皇)を生んではいたのですが、立后においては遵子に敗北したのですね。
つまり公任は、完全勝者の側からとんでもないイヤミを吐いてしまったわけです。
当然、兼家サイドの人々からは深く恨まれるようになります。
当時公任は16歳ですので、後世の我々からすると「彼ほどの人物でも若気の至りがあったのだ」と考えることもできますが……言われた側は、そんなふうには思えないですよね。
皇子に恵まれている分、詮子のほうが将来的には有利でしたので、そのへんが大事にならなかった一因なのかもしれません。
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花山天皇の出家
晴れて皇后の弟となった藤原公任。
当然、出世も早く、永観元年(983年)には左近衛権中将、寛和元年(985年)には正四位下と、まさに上り調子で出世して参ります。
ゆくゆくは自身の娘も入内させて……と考えていたことでしょう。
しかし、にわかに暗雲が立ち込めます。
寛和二年(986年)、花山天皇が突如出家し、代わって一条天皇が即位したのです。
藤原兼家の息子である藤原道兼が花山天皇をそそのかし、政権が入れ替わる、俗に【寛和の変】と呼ばれる政変になり、公任の父・藤原頼忠も関白を辞任することになりました。
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そして、幼い一条天皇を支えるため、藤原兼家が摂政に就きます。
さらには、一条天皇の生母として藤原詮子が皇太后となると、公任の姉・藤原遵子と力関係が逆転し、わずか数年で立場が入れ替わるようになってしまいました。
同年7月、朝臣として詮子の参内に供奉していたとき、進内侍という女房に公任はこう言われてしまいます。
「姉君の素腹の后はお元気ですか?」
“素腹”というのは“子供を生んでいない”ことを意味します。
「石女(うまずめ)」とほぼ同義で、とんでもない言い草ですが、4年前の公任の発言がそれだけ恨まれていたということですよね。
その結果、『大鏡』では以下のように評されています。
公任は人柄が優れていたので、
『以前の自分の発言が悪かったのだから、ここまで言われても仕方ない』
と思い、事を荒立てなかった。
そのため、進内侍のほうが株を下げた。
今も昔も、敗者を追い込むような真似をすると格好悪いと判断されるのは同じなんですね。
まぁ、元々は、公任が相手を追い込んでいたので、どっこいどっこいではあるのですが……。
円融上皇の大井川遊覧で才覚を披露
藤原公任は、ライバルである藤原道長と共に、同年の内裏で行われた歌合に参加したりするなど、顔を合わせる機会は増えていったことでしょう。
かつて兼家が、道長や公任たちについて、こんなことを話したという逸話があります。
自分の息子たちと公任の出世ぶりを比べて、兼家はこう悔しがった。
「お前たちは公任殿の影を踏むことすらできないだろう」
すると道長が負けん気強くこうこう答えたという。
「影と言わず、顔を踏んでやりましょう」
元々同い歳ですし、かなり意識しあっていたのでしょう。
大河ドラマ『光る君へ』の道長は強気一辺倒でもなく、かなり柔軟な性格をしていますが、このエピソードが挿入されるかどうか楽しみではありますね。
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なお、永延元年(987年)には道長も一気に従三位まで昇進するため、公任は追い越されてしまいます。
出世は実家の力が大きく影響するものであり、むろん公任の才覚までもが枯れてしまったわけではありません。
時系列が前後しますが、寛和2年(986年)10月に行われた円融上皇の大井川遊覧でも、多才ぶりを発揮しています。
このときは大井川に三艘の船を浮かべて、それぞれに漢詩・和歌・管弦が得意な者たちを乗せ、芸を披露するという遊びが行われました。
公任は、源相方と共に全ての船に乗ることを許されたとか。
『大鏡』では、主催者が道長となっており、道長が公任に「どの船に乗られますか?」と尋ねたところ、「では和歌の船に」と答えたようです。
そして次の詩を呼んで称賛されます。
小倉山 嵐の風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき
【意訳】小倉山や嵐山から吹き下ろしている風が寒いので、訪れる人は皆、紅葉の錦を着ている
しかし公任は、こう悔やんだとされています。
「漢詩の船でこれくらいの詩を詠んでいれば、もっと名が上がったはずなのに惜しいことをした」
この話がまるっと事実かどうかは不明ですが、公任の才覚と共に「ちょっと、うっかりすることがある」性格を伝えているのかもしれませんね。
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