藤原公任

藤原公任(月岡芳年『月百姿』)/wikipediaより引用

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史実の藤原公任はモテモテの貴公子だった?道長のライバル その生涯を振り返る

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「この辺りに若紫はおられませんか?」

寛弘二年(1005年)、官職に復帰した藤原公任は、同年の末頃から道長邸をよく訪れるようになり、親密になっていきます。

同じ頃、勅撰和歌集『拾遺和歌集』が編纂され、公任の歌は15首採用。

並み居る歌人の中で最多の採用数であり、彼の存在感はさらに増していました。

出世もして、歌壇でも認められ、再び順風満帆になってくると、久々にちょいと口が軽くなり、再びやらかしエピソードが出てきます。

寛弘五年(1008年)11月1日のこと。

道長の娘・藤原彰子敦成親王(のちの後一条天皇)を産み、宿下がり先の道長邸で祝いの宴が開かれました。

この日は、多くの公家が道長邸へお祝いにやってきており、公任もその一人。

ほろ酔い以上の上機嫌になった公任が、彰子に仕えている女房たちのいるあたりへやってきて

「この辺りに、若紫はおられませんか?」

と声をかけたのだそうです。

画像はイメージです(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)

”若紫”とは、源氏物語のヒロイン・紫の上が初登場する巻の名前です。

つまり公任は、紫式部がそのあたりにいることを察していて、わざわざ

「あなたの書いた源氏物語を読みましたよ、気に入りましたよ」

と匂わせるような発言をしたわけですね。

ただ単に酔って悪ふざけをしただけとも取れますが、これを聞いた紫式部は

『光源氏がいないのに、紫の上がいるわけないじゃない』

として完全にスルーしたようです。

作中、紫の上は母を亡くして母方の祖母に引き取られ、都から少々離れた場所にいました。

そこへ、たまたま病気療養中で郊外へ行っていた光源氏が通りかかり、初恋の相手である藤壺の宮の血縁と知ります。

そしてしばらくして母方の祖母が亡くなり、後ろ盾がいなくなってしまった紫の上を、光源氏は半ば以上強引に引き取って自分の屋敷へ連れてきた……という経緯があります。

ですので「光源氏がいなければ紫の上が都にいるわけがない」というわけです。

彼らほどの美しく賢い人がそうそういるわけがない、という意味もあるかもしれませんね。

この話は公任のちょっとカッコ悪い話でもありますが、同時に寛弘五年(1008年)時点で『源氏物語』がある程度広まっていたことを意味するエピソードとして、後世の人々も着目。

出典が『紫式部日記』のため信憑性も高く、「本文以外で源氏物語に触れられた最初の記述である」ともされています。

 


娘が道長の息子・教通に嫁ぐ

藤和公任は寛弘六年(1009年)に権大納言まで昇進します。

位については、他の公家に先を越されることもありながら、かつてのように参内をやめることもなく、きちんと仕事を続けたようです。

寛弘九年(1012年)には、公任の娘が道長の息子・藤原教通に嫁ぎ、両者は縁戚関係となりました。

よほど嬉しかったのか。公任は従兄弟の藤原実資に婚儀のことを延々と語り、その上で実資から“娘の婚礼衣装を贈ってもらう”といった「おいおい……」な言動をしています。

引き出物として贈られたのは『和漢朗詠集』でした。

公任が選んだ漢詩・漢文・和歌を集めた本で、清書は三蹟の一人・藤原行成が行っていますし、紙も選び抜いていたようですので、引き出物にふさわしい見た目にも美しい本だったようです。

公任の娘に対する愛情がうかがえますね。

この後は

◆長和元年(1012年)太皇太后宮大夫・正二位

◆治安元年(1021年)按察使

と順調に昇進していきますが、そのさき大納言や大臣になることは難しくなっていました。

身内の不幸も続きます。

治安三年(1023年)に藤原遵子(じゅんし/のぶこ)の養女となっていた次女を、治安四年(1024年)には藤原教通へ嫁いでいた長女を亡くしてしまうのです。

ただでさえ、子供に先立たれる親の悲しみは深いもの。

彼女たちが将来産む子供(孫)たちにも期待をかけていたでしょうから、その心理的ダメージは計り知れません。

公任は出仕をしなくなり、権大納言の官職を辞任し、出家を志しました。

そして万寿三年(1026年)正月、弟・最円もいた解脱寺(左京区岩倉長谷)で仏門に入るのです。

 


出家して山荘で暮らす

解脱寺は道長の姉・藤原詮子が建立したお寺です。

出家後の公任は、解脱寺から北に少し離れた場所に山荘を作り、静かに暮らしました。

道長から和歌と法衣が贈られたとも伝わります。

他ならぬ道長も寛仁三年(1019年)に出家して、万寿二年(1025年)には末娘の藤原嬉子を亡くしていましたので、公任の心境はよくわかったことでしょう。

同じく娘を亡くしていた藤原斉信も公任の山荘を訪れ、その悲しみや出家の決心がつかないことを語り、公任も慰めながら泣いたとか。

『光る君へ』の終盤で四納言と共に道長が酒を酌み交わしながら語らうシーンがありましたね。

”平安貴族”というとなんとなく余裕があるというか、ゆったりして落ち着いたイメージをお持ちの方も多いかと思いますが、彼らも人間であり人の親なんですよね。

また、藤原教通や息子の藤原定頼も公任の山荘を訪れました。

様々な人の訪問を受けて、少しずつ悲しみが癒えたのか、公任は文化的な活動を再開。

定頼から贈られた和歌の書付から、まだ無名だった藤原範永の歌を見出して褒め称え、それを知った範永が書付を譲り受けた……という話が伝えられています。

その歌は

住む人も なき山里の 秋の夜は 月の光も さびしかりけり

という、実にシンプルなものでした。

技巧的というよりは直感的な感じのする歌で、公任がどのあたりを気に入ったのかはよくわかりませんが……当時の境遇にピタリと寄り添われたように感じたのかもしれません。

このシンプルさは、公任の「滝の音は~」にも通じるものがあるような気もします。

範永は藤原北家の長良流という系統の人で、比較的血筋の近い人物としては、藤原道綱母がいます。

彼はこの後、歌人としてよく知られた立場になり、歌合によく登場します。その第一歩が公任に認められたことだったのかもしれませんね。

余談ですが、範永の妻は和泉式部の娘・小式部内侍です。

公任の息子・定頼が彼女をからかって歌でやり返された……なんて話もあります。

公任の口が滑りやすいところが似てしまったのでしょうかねぇ。

公任はその後、長久元年(1040年)の末に病みつき、翌長久2年1月1日(1041年2月4日)に亡くなりました。

享年76。

公任について一行でまとめると、

「文化的才能に優れつつ、ちょっと口が軽くて感情豊かで愉快な人物」

といった感じでしょうか。

ときにはイラつかされることもあれど、才能は確かで憎めない……そんな人物だったのではないかと思われます。

大河ドラマ『光る君へ』でも、まさにそう描かれましたね。


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長月 七紀・記

【参考】
『国史大辞典』
三石由起子『これで読破! 十訓抄 上巻』(→amazon

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